川を渡る。(坂戸市島田の木橋)

こちらの記事は、ホームページ「鎌倉街道上道埼玉編」で、2008年8月に「きまぐれ 風のささやき…1」として掲載したものをブログに移転したものです。


古い街道を自転車に乗って走っていた。古い街道とはいっても、今ではどこにでもある舗装された自動車優先の道であった。しかし、それでも古い街道であった道と沿線には、わずかながら、いにしえの宿場のたたずまいなどが見られた。やがて街道は川の土手のところに突きあたった。土手の手前には石造物がならんでいる。庚申塔、馬頭尊、水神塔、中には磨耗した板碑もみられる。これらの石造物は、この道が街道であったことを物語っているかのようである。そして、この地点から川を渡ったのだろう。土手上にあがってみると、川には、今ではめずらしい木の橋が架かっていた。

この木橋があるところは、埼玉県坂戸市島田というところで、流れる川は越辺川(おっぺがわ)という。川の対岸北側は東松山市宮鼻というところである。自転車で走ってきた古い街道は、「川越・児玉往還」といい、江戸時代には中山道の脇往還にあたる街道であった。そしてこの付近は、南西側から来る別の街道(八王子道又は日光街道)と合流して川を渡る場所であったのであろう。橋が架けられる以前は、「島田の渡し」と呼ばれ、『武蔵国郡村誌』島田村の項には、「越辺川渡 東京街道に属し村の北方越辺川の中流にあり渡船二艘私渡」とある。木橋のたもとには説明版があり、「風林火山ロケ地 越辺川島田橋」と書かれていた。

なるほど、遠景の送電線の鉄塔がなければ、数百年前の風景はこういうものだったのかも知れない。ここには心地よい風が吹いていた。そして川の向こうには、たいせつにしたい何かがあるような錯覚をおぼえる。

ところでホームページ作者は「道」というテーマを掲げ、歴史的遺産である中世の鎌倉街道及び、それ以前の古道などを素人なりに調べ、現地取材をし紹介してきた。その流れから、これまで江戸時代とそれ以降の道についてはほとんど取材はしていなかった。江戸時代以降の道に興味がないわけではなかった。それよりも中世以前の道、さらに古代の道は謎が多く、調べれば調べるほど興味が尽きないのであった。

もう、このホームページを開設してから、何年になるのだろうか……。

これまでに、作成したホームページを見て、多くの方々が尋ねてきた。テレビ放送制作にも協力した(TVK-この道はいつかきた道)。そしてNHK「街道てくてく旅」では出版物での写真提供などもした。その他写真提供に関しては、多くの教育関連から依頼を受けた。

このホームページ、そこそこに見てくれている人がいるんだなと、無駄にはなっていなかったのだと、ちょっとは安堵している。このつたないホームページを長く応援くださった方々には、こころよりお礼を申し上げたい。そして、それと同時に、今となっては、ホームページを気まぐれに閉じることもできない辛さを感している。

さて、この木橋の上流側には。上の写真のように斜めに木材が設けられている。これは上流からの流木等が橋脚に直接あたる衝撃を緩和するものだそうだ。

一方、木橋の下流側には上の写真のように斜めの木材はない。古の技術者は、その時代の技術と知恵で、さまざまなことを考えていたのであろう。古道を調べていると昔の土木技術(道造り技術)の中には現代人には理解しがたいものを幾つかみることができる。考古学で発掘された道跡にはいまだに解明されていない技法などがあるのだ。現在人の私達にはわからない昔の人にはあった技術や知恵とはどのようなものだったのか。物にこだわる視点の鋭さは昔の人のほうが現代人よりもレベルは高かったのかも知れない。

現代は物資豊富で便利な世の中であるが、一方では精神的には恵まれた時代とは言い難い。現代人(企業も)は儲けることや個人的欲求を満たすこと以外には、あまり考えることをしない人が増えてしまったようだ。そう、考える必要がないのだ、たとえば現在地を知る場合、自分が今どこにいるのか地図を開かなくてもいいのだ。カーナビや携帯電話のナビ機能では、ボタンを押す操作だけで現在自分がいる場所を教えてくれる。これって、確かに便利だが、もし、機械に電源が入らないようなことが起きたら(供給されなかったら)どうするのだろう…。また、便利になるということが人間の思考能力を低下させてはいないだろうか。人間にとって本当に必要なものを創りだすのではなく、ただたんに儲けるために創りだされたものは、やがてゴミとなって環境を破壊していると同時に自分勝手な人間を増やしている。

時代は、そろそろ、ある転換期に差しかかろうとしている。経済成長が永遠に続くと考える方が不自然ではないだろうか。地球規模の危機が問われる今日だからこそ、いち早く転換期の対策が望まれる。過去の歴史では、そんな時代の転換期にはどんなことが起こっていたのか調べてみるのも歴史学の一部である。歴史は繰り返すものなのだから。(繰り返してはいけない歴史もあるが、その回避は、やはり歴史を学び、正しい判断ができるよう心がけることなのではないだろうか。歴史は現代人の多くが軽視している秩序や謙虚さを教えてくれる。)

 

橋の手前(南側)の島田には、明治40年頃に開通した「テト馬車」という乗合馬車が川越の江戸町から一日二往復ほど走っていたという。「テトーテトー」とラッパを鳴らすことからテト馬車と呼ばれていたそうだ。大正5年に東上線が坂戸駅まで開通した後もしばらくは走っていたそうだが、しだいに時代の流れとともにその役割を終えたらしい。

木造りの島田橋は「冠水橋」と呼ばれ、大雨などで川が増水したときには、水没して通行ができなくなってしまう。このような冠水橋は坂戸地区の越辺川には、他にも数ヶ所残っている。この島田橋は、上流600メートルほどのところにある高坂橋(国道407号線)が出来る以前は主要街道の橋(渡し場)であった。現在この橋は外観は木製だが、主桁はH形鋼で、普通車一台なら何とか渡れるのであった。

自由に翻弄される現代人、個人は生きる目的や意味を求めたくなるものであるが、おそらくその答えは生涯得られるものではないかも知れない。もし仮にその答えを得られたとするならば、その人は聖人であろう。まして、昔の人は自分の人生にたいして、選り好みをできるものではなかった。また、他者と自分を比較するのも意味が無い。富や名声を得た人間は一見、幸せそうにみえるものだが、いがいとそうともいえないようだ。人はどのような立場でも、必ず悩みを持っているものなのだから。

人生には耐えなければならない時が必ず何度かある。そこをあきらめずに耐えた先には、必ず何かある。

「道」を探して調べてみよう。そうすれば何もかも忘れられ、初心に近づけるかもしれない。そうしたら、理解してもらいたいというような心はうすれていき視点は自分から離れて行く。そうしたら、呪縛から解き放され、自分に「勝つ」ヒントが得られるかも知れない。人は精神的に強くならなければ先へは進めないものだから。

 

ホームページ作者の思うところは、
「時代の流れという、その川を渡りたい。」

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