奈良新薬師寺旧境内大型基壇建物遺構

 

こちらの記事は2009年5月31日に「鎌倉街道上道(埼玉編)」の番外編へ掲載したものを移設しました。

 

平成20年秋、奈良市の奈良教育大学にて、校舎の改築に伴う埋蔵文化財調査で発見された大型基壇建物遺構の特別公開が行われました。ホームページ作者は関東から遙々と奈良市までやってきて大型基壇建物遺構を見学しました。撮影した写真を整理して「奈良新薬師寺旧境内大型基壇建物遺構」ということで掲載することにしました。

大型基壇建物遺構が発見された奈良教育大学内の調査地点は新薬師寺旧境内地と推定されていて、発見された建物遺構は新薬師寺の金堂跡ではないかと考えられています。上の写真は建物遺構の南西部付近の礎石据付掘形と地固め石で、その背景には多くの見学者が見られます。

 

 

現存する東大寺大仏殿に匹敵する大型建物の遺構を発見。
大型基壇建物遺構は推定復元すると、中央3間が17尺(5.1メートル)、その両側4間が15尺(4.5メートル)、両端の1間が13尺(3.9メートル)となり、身舎で約59メートル、廂を入れると基壇と同じ約68メートルの幅が推定されると説明パンフにありました。この建物は東大寺の大仏殿(現在の大仏殿は全長58メートル、創建当初は86メートルとも言われる)に次ぐ大きさであり、更にこの建物の南前面に特異な大きな階段(推定幅52メートル)を持つ可能性などが明らかとなっています。この建物のけたはずれの大きさは新聞やテレビニュース等でも取り上げられ話題にもなっていました。

上の写真は公開現場の全景でこの写真全域が建物内に入ってしまいます。

 

 

以下、説明パンフより
「平成20年8月28日から調査が行われていて、表土直下には明治時代後半に建てられた旧陸軍聯隊の建物の煉瓦造り基礎や日本庭園跡が検出され、下部から奈良時代に造られた基壇の残存部とその化粧石組の最下段延石列(凝灰岩製)と瓦の堆積する雨落ち溝が検出されました。延石列は西側に続き、北側には基壇の高まりが続くため、さらに調査区外へと西方に続きます。基壇の東南隅では、延石列の北側後方にさらに東へ延びる地覆石も残存する基壇化粧石組の凝灰岩列が検出されました。陸軍聯隊地の側溝によって途中が切断されていますが、調査区外東へ延びています。地覆石には、羽目石がのる切れ込みが加工されています。南側前方の延石列は後方の列に取り付く形となり、後方の地覆石と延石の列が基壇本体の化粧石組であり、南側の延石列は張り出しており、階段部と考えられます。」

現地説明会のパンフは現説公開サイトを参照ください。
現説公開サイト
上記サイトの新薬師寺旧境内遺跡 現地説明会資料(2008/11/22)

上の写真は凝灰岩延石列と雨落ち溝で、発掘時には雨落溝には瓦辺が瓦溜として検出されていました。写真の延石列の右側は階段部と考えられています。

 

 

創建当時の新薬師寺はどのような寺院であったのでしょうか。これまでの新薬師寺の研究では文献資料が中心で、考古学による研究は殆どなかったようです。現在見られる新薬師寺は奈良時代の国宝の本堂と後の時代に建てられた建物がわずかに残るのみで、奈良時代の本堂も創建当時の中心的な建物ではないことがわかっています。創建当時の実態がはっきりしない新薬師寺でしたが、今回見つかった大型建物基壇から東大寺大仏殿に次ぐ大きな建物が存在したことが判明し歴史関連の一大ニュースとなったわけです。

上の写真は建物跡南側に見られる雨落ち溝の遺構と階段部の延石列です。雨落ち溝からは創建当時のものと思われる瓦や、奈良三彩片、乾漆像片などが出土していて、8世紀から10世紀の遺物とされ、10世紀の廃絶の記録とよく一致しているといいます。

 

 

新薬師寺は聖武天皇眼病平癒祈願のため、天平19年(747)に光明皇后の勅願にて建立されたと伝えられています。平城京には藤原京から遷都後に移転された薬師寺がありましたが、新薬師寺の「新」は「あたらしい」ということではなく「あらたかな」薬師寺という意味があるそうです。当時は南都十大寺のひとつにも数えられ、四方四町の境内には七堂伽藍が並び一千人の僧侶がいたといわれます。

説明パンフに載っている新薬師寺略年表を以下に転記します。

  • 天平19年(747)
    聖武天皇不予のため、光明皇后が新薬師寺を建て、七仏薬師像を造立 『東大寺要録』
  • 天平勝宝3年(751)
    聖武天皇病気平癒のため、新薬師寺で続命法による設斎行道が行われる 『続日本紀』
  • 天平勝宝8年(756)
    『東大寺山堺四至図』成立。新薬師寺堂として七仏薬師金堂が描かれ、この年までに建立
  • 天平宝字6年(762)
    新薬師寺七仏薬師像の白毫、光背など制作『正倉院文書』。東大寺造営修理塔寺料封一千戸のうち百戸が新薬師寺に施入され、塔・仏殿・僧坊等の供養修造料に充てられる『東大寺要録』
  • 天平宝字7年(763)
    新薬師寺七仏薬師像の脇侍菩薩、神王像(十二神将像)造立。この頃、金堂、壇院(壇所)、薬師悔過所、政所院、温室、造仏所(造丈六像所)の存在が記録される『正倉院文書』
  • 天平宝字8年(764)
    西塔の存在が知られる『正倉院文書』
  • 宝亀3年(772)
    新薬師寺の総供養に東大寺から資材を借りる『正倉院文書』
  • 宝亀11年(780)
    新薬師寺西塔焼失『続日本紀』。新薬師寺仏殿九間とあり、西塔以外に金堂・講堂も焼失とあるが『東大寺要録』、葛城寺の記事に引かれた記事の可能性あり。
  • 応和2年(962)
    大風により、七仏薬師堂(金堂)等堂舎顛倒、他に東大寺南大門等も倒壊『東大寺要録』。

 

 

建物の南表面には長い階段の存在を想わせる遺構が見られる。
今回発見された大型基壇建物遺構は、大きな建物であったこと以外にも注目すべきものがあります。それはこの建物の表面階段が推定で全長が52メートルもあったことです。上の写真は発見された建物遺構の南東付近のもので、延石(のべいし)が1.8メートル南側に張り出しているのが確認でき、1.8メートル張り出していない奥の延石の上には地覆石(じふくいし)が載っているのがわかります。地覆石は延石の上に積む外装用のもので、この地覆石がある位置が建物基壇の本体部と考えられ、1.8メートル張り出した延石部は階段部であったものと見られています。

 

 

一般の仏堂の正面階段は1〜3禍箇所程度で、表面中央の一間から三間部に設けられるものが殆どです。この大型基壇建物遺構の階段は南側正面で発掘された延石列から推定で52メートル幅とされる横長の階段が設けられていたことが推定されています。このような横長の階段がある仏堂はホームページ作者にも他の例の記憶がなく極めてめずらしいものだと思いました。

上の写真は建物遺構の南東付近の1.8メートル南に張り出した凝灰岩延石列を西側から真横に見たものです。

 

 

上の写真は建物遺構の南東部付近で、多くの見学者がおとずれて熱心に見学されています。

基壇の高さや壷事業の大きさなどから金堂の可能性が指摘される。
説明パンフによれば、「基壇は、延石下面から東側の地山削りだしの残存部の最上面の比高差が1.5メートルであり、階段部が1.8メートルで、延石を入れると2.2メートルあり、2メートル前後の基壇の高さが推定されます。」とあります。基壇の高さ、壷地業の大きさ、南全方45メートル内に金堂に相当する基壇が存在しない、講堂とすれば東大寺の講堂より大きくなるなど、この大型基壇建物遺構は金堂と考えられるということです。

長い階段は薬師如来7体を同格の本尊とみるための工夫か。
『東大寺要録』によれば、新薬師寺の金堂は本尊の薬師如来像が7体安置されていたといい、7体の全てが日光・月光菩薩をともなう三尊像で、更に十二神将像が置かれていたそうです。7体が横一列に並び、それら全てを同格とする本尊と扱うことにより、仏堂正面には52メートルもの長い階段が設けられたのではないかとも考えられているようです。

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