大宮大地の鎌倉街道羽根倉道

こちらの記事は2010年2月14日に「鎌倉街道上道(埼玉編)」の番外編へ掲載したものを移設しました。この記事は趣味として古道探索を楽しんでいるブログ作者の古道研究方法を記したものでもあります。資料の探し方や集めた資料の繋げ方、仮説の考え方など歴史好きな方々の個人的な研究に役立てられれば幸いに思います。

 

 

鎌倉街道として関東地方には、上道、中道、下道が中世の主要幹線路として伝えられてきています。埼玉県内にはその他に、秩父道、羽根倉道、山ノ道などが通っていたことも知られています。また、それら以外にも鎌倉街道と称する沢山の支道や間道もありました。関東各地の鎌倉街道を尋ね歩いているホームページ作者は、これまで語られてきた上道、中道、下道だけでは中世古道である鎌倉街道を説明するには不十分ではないかと思うようになりました。さらに、これら三っの幹線路も再検討が必要なのではないかという思いも湧いてくるのです。研究者ではない素人のホームページ作者ではありますが、従来説の鎌倉街道の道筋とは少し違った視点から鎌倉街道羽根倉道について語って行きたいと思います。あくまでもホームページ作者の仮説であって発想の転換の面白さを語ったものであり、新設ではありませんので、あしからず。

上の写真は現在のさいたま市北区(旧大宮市)奈良町に残る鎌倉街道跡と伝わる緑地内の道です。ルート的には上道と中道を連絡する「羽根倉道」にあたるものと思われます。

 

 

さいたま市大宮区櫛引観音堂の板碑群
ホームページを見ていただいている人々の中には感想やご批判、そしてホームページ作者でも知らない情報等をメールしてくださる方もいます。それらの方々には大変感謝しています。そして古道や中世史に関する情報を寄せていただいた中には、ビックリする内容のものもあります。例えば、さいたま市のある方からのメールで、その方の家に代々伝わるという板碑について質問されたことがありました。その時に家の近くの観音堂には板碑があると教えていただきました。上の写真は、その観音堂の板碑を撮影したものです。さいたま市大宮区櫛引町の櫛引観音堂境内には板碑が50基以上あるのです。一カ所にこれだけ沢山の板碑が見られるのは埼玉県内でも珍しいことです。そして観音堂の西側を南北に通っている道は鎌倉街道だと伝えられているのです。

板碑についての説明はこちらのページで 板碑

 

 

旧大宮市付近の鎌倉街道は加村往還とも呼ばれている
櫛引観音堂の西側を南北に通る鎌倉街道は「加村往還」「与野道」とも呼ばれています。大宮区から北側は北区に入り、中世まで遡る寺院と伝わる金剛院と満福寺の中間の台地上を北進しています。JR川越線日進駅の近くには明治維新のときに廃寺となった東光寺という寺院があって、その寺院にあったという雲版が鴻巣市上会下の雲祥寺いう寺院に現在あり、その雲版には明徳5年(1394)の銘があることから東光寺は南北朝から鎌倉時代まで遡る寺院であったことがうかがえます。日進駅の西の踏切の手前(南側)には街道沿いに日進神社があります。この神社は明治40年(1907)に地区の神社を合祀したもので、もとは上加村の氷川神社でした。神社には市指定無形民俗文化財の「日進餅つき踊り」の説明版があります。上の写真は踏切から北側へしばらく進み、新大宮バイパスに出る手前付近の街道伝承の道で、道沿いには大きなケヤキとスダジイの木がある民家も見られます。

 

 

緑地の中を直線で300メートルほど鎌倉街道が残っている
鎌倉街道伝承の道が新大宮バイパスを渡ると奈良町になり、しばらく北進するとやがて左手に大宮北高校があります。この高校の南側で、日進方面から来た道より西側100メートルほどのところでは、鴨川の左岸に沿って南北300メートルほどの緑地帯があります。「三貫清水緑地」と呼ばれていて、緑地の中には鎌倉街道の跡と伝わる道が南北に300メートルほど残されています。上の写真はその鎌倉街道跡の道で南端から北側に向かって撮影したものです。南端から50メートル位は写真のような舗装された道ですが、その北側は緑地の中を進む未舗装の鎌倉街道跡になっています。

 

 

上の写真は舗装路が右手に逸れ、直進する鎌倉街道は土の道の上に積もった枯葉に覆われていました。撮影したのは平成21年12月の初めです。ホームページ作者がこの鎌倉街道跡を知ったのも、またホームページ閲覧者からのメールでした。メールをくださった方は大宮北高校南側の鴨川に沿った緑地に鎌倉街道があり、その道をよく利用していると言っていました。ホームページ作者の自宅のある川越市のお隣で、さいたま市(旧大宮市)にも鎌倉街道の跡が残っているらしい。おそらく羽根倉道にあたるところなのだろうと思い、一度見ておこうと自宅から自転車で尋ねてみました。自転車で荒川を渡り自宅から1時間半ほどでこの写真の現場に着きました。

 

 

上の写真は未舗装部の鎌倉街道跡に入ったところから北側を撮影したものです。直線的で凹地状になった道の姿は典型的な古道の景観です。

ここへ初めて訪れたのは10月なかばで、その頃は緑地の木々はまだ青々としていました。自宅からそう遠くないところに、こんなに素晴らしい鎌倉街道跡が存在していたことには大変ビックリしました。鎌倉街道のホームページを作成し始めてからそろそろ10年、その作者がここの鎌倉街道を知らなかったのは情報不足で怠慢ともいわれても仕方がありません。関東の一都六県全ての古道探索をしているにも拘わらず、意外と近場の古道探索は見落としがちになるものです。近いからいつでも行ける。そういう方に方に少々反省してしまいました。

 

 

上の写真は落ち葉が積もった鎌倉街道に入り北側から南側を撮影したものです。真っ直ぐな道の景観は古道好きな人の心に響くものがあります。

富士見市の羽根倉道とこの緑地の鎌倉街道は同一路線の鎌倉街道なのか
鎌倉街道羽根倉道については、所沢市から富士見市にかけての道筋を何度か探索してはいました。富士見市の水子道には所々に古道跡といわれる場所も見られ、羽根倉道として、そのうちホームページにまとめてみようと思っていました。その頃から埼玉県外の古道探索が多くなり、水子道は現在迄にまとめるには至っていなかったのです。今回尋ねたさいたま市の鎌倉街道跡はご覧の写真のように真っ直ぐで道幅もかなりあり、同じ羽根倉道でも富士見市の水子道は、道幅も狭く、柳瀬川左岸の台地沿に屈曲が多くあり、しかも台地上を通ったり台地下へ下りたりしていて、はっきりしないところがありました。ホームページ作者の頭の中は、さいたま市鴨川左岸の鎌倉街道と所沢市から富士見市に見られる羽根倉道が果たして同一路線の鎌倉街道なのかと多少なり疑問が湧いてくるのでした。ただ、所沢から羽根倉橋までの鎌倉街道は柳瀬川左岸の水子道と、柳瀬川右岸の引又道があり、引又道に関しては殆ど調べていないのでここの鎌倉街道と比較はできません。

 

 

市街地に近いにも拘わらず整備保存されている鎌倉街道
未舗装部に入って40〜50メートルほど進んだところに鎌倉街道と交差する舗装道路があり、そこのところに「鎌倉街道」と書かれた標柱が立っています。標柱はまだ新しいもので、通りがかりの人に聞いたところ、立てられてまだ2〜3年位だそうです。以前にも鎌倉街道の標柱はあったそうですが今見るものよりも目立たないものであったそうです。ここの鎌倉街道は近年に雑木林とその中を通る道を「三貫清水緑地」として整備されたものなのです。ホームページ作者は鎌倉街道のホームページを作り始めてから、多くの古道跡が開発等で無くなっていくのを見てきているので、歴史遺産として鎌倉街道を整備保存してくれる自治体があることには心強く感じました。さいたま市とその関係者には感謝しつつ他の自治体もここの緑地を参考に鎌倉街道の整備保存に習っていただけると有り難いものです。

 

 

上の写真は10月に訪れたときの写真です。12月の落ち葉で埋め尽くされた道の雰囲気とは大夫趣が違います。雑木林は四季折々の景観を見せてくれて人の心を和ませてくれます。こういった自然美を現代人は大切にしたいものです。

旧大宮市内には幾筋かの鎌倉街道があった
『大宮市史』によれば市内(旧大宮市)には鎌倉街道と呼ばれている古い道が数箇所残されていて、『大宮市史』には旧市内五箇所の鎌倉街道が紹介されています。そのひとつが今回紹介している鴨川左岸の羽根倉道であり、その他に現在のさいたま市見沼区の片柳台地上にも2本の鎌倉街道と称する道があったようです。さらに大和田陣屋址の前から岩槻方面への岩槻道も鎌倉街道と呼ばれていたといいます。

 

 

また、さいたま市西区の水判土観音から北東へ向かい三橋の鳶坂へ通じる道が鎌倉街道と呼ばれ、その道は羽根倉道へ通じていたと伝えています。さらに市域最南端の鴨川の藤橋を渡る道も鎌倉街道として羽根倉道へ通じていたようです。藤橋付近には源頼朝に仕えた平安時代末期から鎌倉時代初期の武士である足立右馬允遠元の館跡伝承地もあり鎌倉時代創建当時の物語を偲ばせています。この藤橋付近には古墳群が多くあり、古代瓦の出土する遺跡なども存在し、古代から栄えていたところと考えられます。鴨川の藤橋から南へ2〜3キロのところは、荒川の羽根倉橋の東側付近でそこにある埼玉大学の北側には大久保領家遺跡があります。大久保領家遺跡は古代足立郡衙の推定地にもなっています。

上の写真は緑地内を通る鎌倉街道を南側から北側に向かって撮影したものです。緑地内の道幅は4メートル位でしょうか。

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