七曲り、八起き

川越市内に「七曲り」と呼ばれる古い町割りと道があります。

三久保町永島家住宅前にある解説版に次のように説明されています。

七曲がり

川越城下の武家地は、城の近くに上級武士、離れるに従って中・下級武士、街道筋には足軽屋敷が配置されいた。こうした構成は江戸時代を通じて変化はないが、家臣団の規模により武家地の領域には変動があった。

松平大和守の入封に伴い、武家地は大きく拡大する。秋元家時代(1704~1767)の川越城下の様子を描いたとされる『秋元但馬守様川越城主之頃図』と松平大和守家時代(1767~1866)の城下図とされる『川越城下図』と比較すると、秋元家時代に城下の外であったところにまで武家地が拡大し、これに伴い道もつくられたことがわかる。ここでの道のつくられ方は直線路となっている。一方、秋元家時代に郷分町(村が町場化したころ)や燈明寺(東明寺)・泰安寺の寺域となっていたところにまでも武家地が拡大し、同様に道がつくられたことがわかる。こちらでは、郷分町であったところや寺域境であったところに沿うように道がつくられている。この拡大範囲の道は非常に屈曲が多く、郷分町であった側は、通称「七曲り」と呼ばれるようになった。なお、「七曲り」とは道が幾度にも折れ曲がっている場所のことをいう。

ふたつの城下図から「七曲り」は、江戸時代も後半になってつくられた屈曲路であることが明らかであるが、防衛上の目的からつくられたのかどうか定かではない。『秋元但馬守様川越城主之頃図』では既に屋敷割の原型がつくられており、松平大和守家時代にはその屋敷を踏襲するかたちでは武家地は拡大された。そして、この屋敷割に沿うとともに各屋敷への出入りを容易にするために道がつくられ、結果的に複雑な屈曲路をかたちづくることになったのであろう。「七曲り」は、武家地の拡大という事実が生んだ道であること。そして、今に江戸時代の名残を留める道であることは間違いない。

上の写真は川越市三久保町の永島家住宅(旧武家屋敷)の北側に面した道路から永島家住宅を撮影したものです。永島家住宅は城下町の面影を今に伝える江戸時代後期の中級武士の屋敷であるとされ、川越市指定史跡になっています。

上の写真に見られる解説版は「七曲り」を説明したものです。その内容は上記でコピー書きしました。『川越城下図』と『秋元但馬守様川越城主之頃図』も掲載されています。解説版の左側から南に向かう細い道が「七曲り」の道です。この道はご覧のとおりで道幅が狭く車が入るのはちょっとキツいようです。

上の写真は、永島家住宅の北東から南に進み最初に現れた屈曲です。小さく鉤の手状に屈曲した道であることがわかります。「七曲り」と呼ぶように何度か屈曲する道なのです。

屈曲の直ぐ先の左手に真新しい建築があります。その建物の前に石柱が立っていて、三久保町七の十五、五軒長屋と書かれています。石柱の右面には七曲りと書かれていました。石柱の赤い文字は右面が「七」、正面が「五」、左面が三久保町の「三」で、続けて読むと「七五三」ということのようです。

道はその先でT字路となり、「七曲り」は右に曲がります。そこから西へしばらく直線が続いています。この直線の中程左手(南側)に鳥居と神社があります。神社前から左へ曲がる道はブログ作者が自宅方面から私立図書館へ自転車で向かうときによく通った道です。「七曲り」を知る以前からこの付近は屈曲の多い路地だなとは思っていました。

この神社は「瘡守稲荷神社」といいます。瘡守(かさもり)と読みます。天然痘、できもの、はれもの、かさぶた、梅毒など病気平癒の神社であるそうです。社殿の裏に本殿がありお稲荷さんの小さな狐が沢山並んでいます。

神社から西へ向かい振り向いて撮影した写真が上のものです。どこにでもある住宅街の道路ですが、これを江戸時代からの道と思って見ることで違った趣が感じられるかは感性のとらえ方なのでしょうか。

やがて直線は終わり右へ直角に曲がります。

遠い昔、子供の頃、こんな車一台通れるか通れないかの細い道がブログ作者の自宅前の道でした。このような道で縄跳びや缶蹴りをして遊んだものです。その頃の遊びとはお金を使うものではありませんでした。いつ頃からか遊びはゲームセンターとか、遊園地とか大人が製作したり造ったりした遊び場へと変わって行きました。遊び方が変化して行くことで何か大切なものが遠のいて行くようで悲しかった想い出があります。

道はその先でクランクしています。

川越市の「菓子屋横丁」は昔の懐かしいお菓子を売る店が並んでいます。ブログ作者の子供の頃のお金の使い道といったら、このような駄菓子屋で毎日のお小遣い10円でお菓子のくじを引くことでした。お菓子にはくじがあり、当たればもう一つお菓子がもらえるのでした。そのようなお小遣いの使いみちも楽しくワクワクしたものです。

細道を抜けたところは下の写真のラーメン屋のところです。
ラーメン食べたいな。できれば醤油ラーメンが良い。鳴門巻き、支那竹(メンマ)、焼き豚など乗る昔ながらのラーメンがいいですね。

昭和レトロな「菓子屋横町」のようなものが観光スポットとして人気なのは何故なのでしょう。昭和生まれの大人が懐かしく楽しいのか、現在の子供は珍しくて面白いのか。いずれにしても、そこには簡素で素朴なものへのあこがれとか安住があるのではないでしょうか。

ラーメン屋に出たところの道は永島家住宅前北側の直線道です。ここを右に曲がれば再び元の場所へ戻ります。

便利な世の中を否定するわけではありません。人間の生活には発明、科学の発展は必要だと思います。ただ世の中には必要以上のものが溢れているように思えてなりません。無駄なものも沢山あります。無駄なことで人が不幸になっていることがあります。七転び八起き、七回曲がって八度目に良いことがありますように。

こちらの直線道には下の写真のような趣のある格子戸の家も拝見できます。川越は蔵造りの町並みが有名ですが、昔の建物は現代人にとって何故かほっとするものがあります。現在の住宅は生活に便利な工夫がありますが何故か見た目が美しくありません。一方でひと昔前の住宅には生活する空間として安らぎのようなものが感じられます。

再び永島家住宅前へ戻ってまいりした。武家屋敷の俤(おもかげ)として「坊主枳殻(からたち)医者山伏」とあり、これが古い川越の名物とされていたようです。武家屋敷の外囲いは枳殻の生垣でなければならないと決められていたようです。三久保町は昔武家の屋敷町であって枳殻の塀を連ねていたそうですが、今その俤を遺すものは僅かに永島家住宅のこの生垣だけだそうです。

永島家住宅は、毎週土曜日に内部公開されています。次回はこの永島家住宅の内部を紹介してみたいと思います。

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