阿津賀志山防塁と国見峠長坂

福島県国見町の国指定史跡「阿津賀志山防塁」と奥州道中遺跡「国見峠長坂」を訪れてみました。

国見町は福島県の北端に位置していて宮城県との県境となっています。東には阿武隈川が流れ、信達盆地の肥沃な土地に恵まれた町ということです。

この地は昔から交通の要衝でありました。現在では南北に東北本線・東北新幹線・国道4号線・東北縦貫自動車道が集中しているところになっています。

阿津賀志山防塁下二重堀付近のももの花

ブログ作者がここを訪れたのは4月中旬で、あちらこちらにももの花が咲いていました。ももは国見町の花だそうです。古来、中国では桃には不老長寿を与え邪気を払う神聖な力があると信じられていたそうです。

国見町近辺には、ももの名所が多く、福島市には福島の桃源郷と呼ばれる「花見山公園」があり、飯坂温泉には「飯坂温泉花ももの里」などがあります。

国見町の花といえば「中尊寺ハス」も近年知られるようになりました。平泉中尊寺金色堂に伝わる藤原泰衡の首桶から100粒あまりの蓮の種子が発見されました。その種子から大賀ハスで有名な大賀一郎博士らによって、一輪の花が開花させられました。

国見町には奥州藤原氏が築いた阿津賀志山防塁があり、平泉とゆかりがある町として平成21年に平泉からそのハスの株を譲り受け栽培してきたそうです。

阿津賀志山防塁・下二重堀地区

上の写真及び下の写真は、中尊寺ハスが栽培されている中尊寺蓮池近くの阿津賀志山防塁の下二重堀です。

文治五年、源頼朝が率いる鎌倉軍と奥州藤原軍が、ここ阿津賀志山の麓で戦いを繰り広げました(阿津賀志山の合戦)。

ここには藤原泰衡が鎌倉軍を迎え撃つために築かせた、二重の堀と三重の土塁からなる防塁(二重堀)が今も遺されています。

阿津賀志山防塁・下二重堀地区

防塁は厚樫山の中腹から南東へ阿武隈川岸付近まで3.2キロ築かれています。防塁を築くのに要した労働力は延べ25万人で6ヶ月以上かかったと推定されています。

阿津賀志山防塁・国道4号線との接点

「阿津賀志山の防塁」については有名であり、他に沢山のホームページやブログがありますので詳しい内容はそれらを検索してください。ここでは、防塁と道との関連について少しだけ触れてみたいと思います。

上の写真及び下の写真は、国道4号線で切られた防塁を撮影しています。下の写真は国道の北側の防塁に登り切られた防塁を撮影してみました。国道の南側にも防塁の痕跡が続いているのが見られます。

阿津賀志山防塁・国道4号線との接点

阿津賀志山合戦が行われたのは古代末期ですので、その当時この付近を通っていた道は「東山道」と思われます。

防塁と国道4号線が接するところの南側へ約70メートルほど進んだ辺りで、発掘調査により防塁の切れ目が確認されています。そこの幅は約4メートルで、⼈が3、4⼈通れる広さであったようです。その切れ目は奥州合戦の様⼦を記録した「吾妻鏡」にある、「⼤⽊⼾」と呼ばれる出⼊り⼝ではなかったかと考えられているようです。

阿津賀志山防塁・国道4号線北側地区

この大木戸付近が最も激しい戦闘が繰り広げられたところなのでしょう。更に発掘調査では、土橋及び堀と⼟塁に囲まれた防御施設遺構(阿津賀志楯か?)も確認され、土橋部には古い道路側溝を埋めたらしい部分も検出され、その遺構は東山道跡の可能性が考えられているようです。

阿津賀志山防塁・国道4号線北側地区

平安時代の『延喜式』の巻二十八兵部省の諸国駅伝馬に、東山道の陸奥国駅馬として、福島県内に八つの駅家が置かれたことが見られます。その場所は南から雄野(白河市)・松田(同)・磐瀬(須賀川市)・葦屋(郡山市)・安達(本宮市)・湯曰(旧安達町)・岑越(福島市)・伊達(国見町)とあります。

阿津賀志山防塁・国道4号線北側地区 後方は厚樫山

伊達の馬屋が国見町のどこにあったのか詳しいことは判っていないようですが、国見町には古代から中世の遺跡が多く見られるところのようです。

8世紀初頭の陸奥国再編では、石背・岩城・陸奥国の3国に分離した際、この地は石背国の北限をかたちづくる国境となりました。南限の「白河の関」に対するかのように北限の「下紐の関」及び「抑え関」と称され、平安時代には和歌の歌枕として知られていたようです。

国見町に防塁が築かれたのは、当時陸奥国を納めていた支配層により、ここが境界としての意識があったものと思われます。

防塁の切れ目が確認されたところの北東約500メートル付近に、国見峠長坂と呼ばれる奥州道中跡と伝わる道が遺されています。そこには下の写真のような見事な掘割道が見られます。残存する道跡の長さは150メートレ弱程ですが、掘割の形態は左右の壁の高さは均等を保ち、路面も流出は無く平らで現在も道として使用されているのではないかと思える位にしっかりと硬化しています。

道幅は目見当で恐縮ですが、掘割底(硬化面幅)が3~4メートルで、掘割上幅は10メートル以上と思います。

国見峠長坂・南側入口

ブログ作者がこんなに見事な堀割道を見るのはずいぶんと久しいことです。季節的に木々の葉が芽生え始めた頃で、樹林の中の古道としては比較的に明るさが感じられました。

さて、この掘割道は近世の奥州道中ということですが、古代「東山道」や中世「奥の大道」はこの国見町のどこを通っていたのかが一番の知りたいところでした。

国見峠長坂・古道跡

国見町の厚樫山(阿津賀志山)は、古代からの道路が目指すランドマークであったものと考えられます。福島市方面から北上してくると、信達盆地の北端付近でこの厚樫山が目に入ってきます。

阿津賀志山防塁の発掘調査で確認された、防塁の出入り口と考えられる、防塁の切れ目が発見された場所から、この国見峠長坂があるところまでは、厚樫山から派生する微細な尾根と思われ、その尾根上を奥州道中が通っていたと推定されます。

国見峠長坂・古道跡

阿津賀志山防塁の切れ目が確認されたところから、福島県と宮城県の県境付近で白石市の「下紐の石」があるところを地図上で直線を引いてみると、国見峠付近をその直線が通ることが判ります。
※下紐の石(宮城県白石市越河)は、将軍坂上田村麻呂が対蝦夷対策として関所(下紐の関)を置いたところと伝えます。

国見峠長坂・古道跡

何も阿津賀志山防塁の切れ目から白石市の「下紐の石」まで、道を直線で結ばなくても、厚樫山の東麓を東へ少し巻けば、国見峠まで登らなくてよい道筋が付けられると思われる方もいることでしょう。

しかし、古代や中世の道は、短距離で結べる道ならば、高低差はあまり気にしないで直進的に進む傾向があるのです。現在残る鎌倉の切通では峠付近が大きく掘り下げられていますが、古くは峠のかなり高い位置まで登っていたことが判っています。また碓氷峠の中山道脇に残る古い道跡は傾斜があっても蛇行せず真っ直ぐに登っていました。

国見峠長坂・古道跡

そのようにいろりろ考えてみますと、国見峠のある位置は、昔の人が考える峠の位置として理想的な場所であったと考えられるのです。

そうすると、この国見峠長坂の奥州道中跡は、尾根上を通る掘割道であること、傾斜面であるにも関わらす直線的な道であること、江戸時代の参勤交代に使用された道としては幅が広いこと、などから近世の幹線道路以前の古道跡の可能性を考えたくなるのです。

国見峠長坂・古道跡

この古道を遺跡調査されたという情報は得ていませんので、奥州道中より古いのかどうかは断定できるもではありません。道だけを発掘しても、時代を決める手掛かりを得るのは難しいようです。

国見峠長坂・古道跡

厚樫山の東腹部で坂を登りつめたところが国見峠です。昔の旅人はここで一息ついたのでしょう。峠には茶屋があったと伝えています。

国見峠長坂・峠部

現在国見峠には松尾芭蕉が元禄二年に奥の細道を旅する途中でここを訪れたことを記念する碑(芭蕉翁記念碑)が建てられています。碑には以下の文字が刻まれています。

遙(はるか)なる行末を
かかへて斯(かか)る病
覚束(おぼつか)なしといへど
羇旅辺土(きりょへんど)の行脚
捨身無常(しゃしんむじょう)の観念
道路(どうろ)にしなん
是天の命なりと
気力聊(いささか)とり直し
路縦横(みちじゅうおう)に踏で伊達の
大木戸をこす

国見峠長坂・峠の芭蕉碑

芭蕉は前夜に飯塚(飯坂温泉)に泊まりましたが、
そこは土間にムシロを敷いただけのみすぼらし宿でした。
ともしびも無く、いろり火の傍らに寝床をもうけて寝ました。
夜に入ると雷が鳴り、雨が降り、水がもってきて、
その上、ノミや蚊に刺され眠れなくなり、
さらに持病まで起きて滅入るばかりでした。

短い夜は明け先へと旅立ちますが、
昨夜のいやな感じが残り、旅立つ気持ちが向きませんでしたが、
馬を借りて、そして桑折の宿場へ着きました。
まだ旅路は長いのに、病が起こり、行く末が思いやられます。
異境への過酷な旅に向かい、我が身は捨てた覚悟があります。
旅の途中で死んだとしても、またそれも天命であると思うと、
少し気力も取り戻し、道を自由自在に歩き、伊達の関を越えました。

国見峠長坂・峠部の奥 東側展望

文治五年の奥州合戦のとき、石那坂の戦いで敗死した信夫庄司佐藤基治等一族の首級は「教ヶ岡」の地にさらされたと伝えています。国見峠のやや北側が教ヶ岡です。

国見峠長坂・教ヶ岡

この先は道がありませんので進むことはできません。奥州道中はこの先に貝田宿があり、貝田宿の北は福島と宮城の県境で先述の「下紐の石」があり、そこはまた仙台藩越河番所が置かれていました。

阿津賀志山防塁を跨ぐ推定東山道は、防塁の切れ目が確認された地点で南側から左へ少し折れていることが確認できます。そうすると道が折れる場所に防塁を築いたということになのでしょうか。

古い時代から、歴史物語を伝えてきた地理的境界(大境)に、春の柔らかい日差を感じられる散策ができました。

国見峠長坂・古道跡

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