母が永眠しました。

 

 

9月12日、母が永眠しました。

93歳でした。母の誕生日は9月29日でしたからもう少しで94歳だったのですが。
自分の親が亡くなる日はいつか来る、自分が先に逝かない限りは。父は34年前に亡くなっていて、その後に私は母と二人暮らしをしていました。何があっても母だけはいつも近くにいる人だと思っていたのですが、とうとうその日が来てしまいました。

私の母は脳出血などの過去の疾患から認知症を患っていて、14年ほど前から家の近くのデイサービスに通っていました。9年前の東日本大震災のときに私が心筋梗塞になってしまい、それ以降私自身が介護に支障を感じるようになり、施設へ入所させることを考えていたのです。

5年前に川越市内の認知症専門介護施設(グループホーム)へ入所させました。その施設に入る前に介護認定の更新があり、市役所の訪問認定職員がやってきて母の現在の状況を聞き取り調査しました。そのとき母は尋ねて来た人が何しに来たのかをさりげなく理解していたのかも知れません。「立って歩けますか、今日は何曜日ですか…。」すると母は「直に死んじゃうのだから、そんなことしなくていいの」母はその職員さんと私にそう言いました。職員さんは笑いながら、「施設に入所されたいのですね」と私に小声で聞きました。「自分の子供のことも分からなくなってしまう人もいるくらいだから、お母さんしっかりしていますね」。そのときの母の通知結果は要介護2でした。

入所の日、母には入所することを告げずに、こっそりそこへ連れて行きました。今日はここに泊まるからね、そう言って私だけ帰って行きました。それまで何度かショートスティで母を泊まりの施設へ預けたことはありましたから、その日の母も特別なこととは思っていなかったのだと思いました。数日後母に会いにその施設へ行き、その日に私が帰るときに母は自宅へ帰りたく寂しそうな顔をしていました。私は一人で家に帰りましたが母の寂しそうな顔を思い出して涙が出ました。「お母さん、ごめんね」

その施設へ入居して数ヶ月後には、母はすっかりその施設に慣れ親しんでくれていました。私は2週間に一度のペースで母に会いに行っていました。母は会いにきた私を見ると嬉しそうな顔を見せてくれた一方で、私に気遣ってくれていて「もう帰っていいよ」そのように言ってくれました。それは私の自由な時間を束縛させない母の意思表示なのです。その頃には私自身もその施設の職員さん達から親しくさせて頂いていて、良い施設へ入れてよかったなと思っていました。

施設へ入居して2年後ぐらいのあるとき、施設から母の具合が悪いので私に病院へ連れて行ってもらいたいという電話がありました。母は首の痛みを訴えていたのです。病院の一般診療の時間は過ぎていて取りあえず救急で見て貰うことを病院へ伝えてありました。母を私の車で連れて行き病院のロビーで診察を待っていたときのことです。母がニコリと笑うので後ろを振り向くと施設のリーダーが来てくれていました。そのとき私は、母がこの施設のリーダーから親しくされているのだな、このリーダーなら母を安心して任せられるのだと思いました。
頭部のCT検査を受けました。母の頭部のスキャン画像には古い脳疾患の影があるのを先生が説明してくれましたが、ただその時には母の頭部には問題がなかったようです。痛み止めなどの処方薬をいただき施設へ戻ったのは午後9時を過ぎていました。

私は時々母を自宅へ連れて来ていました。自宅へ帰るとそこが何処なのか母には分かっていたようです。さりげなく嬉しそうな表情をしていました。ある日、母を自宅へ連れて来ていたときのことです。その頃の母は一人では殆ど歩けなくなっていました。施設で借りた車椅子で玄関まで来て、そこから母の手を取り身体を支えて玄関の段差を上がらせていたときです、母の姿勢が崩れて転倒してしまいました。母は泣きだし中々起き上がれません。何とか起こして部屋に連れて行くことができましたが腕を打撲していたようで、母は腕の痛みを訴えていました。施設へ戻りそのことを施設の職員へ話すと、私は怒られてしまいました。まるで私の対応がまずかったかのように言われてしまったのです。
その数日後に施設のホーム長と電話で話をしていたときに私は感情的になっていて、つい怒鳴ってしまいました。「自分の親を家へ連れてきて何がいけないのだ」その頃の施設側の対応に私自身も不満があったことは確かなのですが、自分自身にも何か心の余裕のなさがあり反省しました。そんなことがあって、それ以後のホーム長は丁寧に説明してくれるようになりました。この施設のホーム長やリーダーや職員を信頼しないといけないのだな、そう思うようになりました。その頃から母は施設内でも車椅子利用が多くなり要介護4になっていました。

施設に入居してから私は欠かさず、5月の母の日と9月の母の誕生日にお花を届けに行っていました。施設の職員もそれを知っていて「今回は何のお花ですか」そのように語りかける職員も嬉しそうに言います。母はお花が大好きです。自宅に居たときも近くの畑などから四季折々の花を取ってきては花瓶などに生けていました。昨年の母の誕生日にはピンク色のベコニアを持って行きました。

今年の正月の2日にクループホームから、母の意識が無いと連絡がありました。救急車で病院へ運ばれ、私はその病院へ駆けつけました。以前に首の痛みで母を連れてきた病院でした。母は確かに意識が無く話しかけても返事はありませんが息をしているのはわかります。検査の結果、誤嚥性肺炎と診断され、そのまま入院することになりました。翌日病院へ駆けつけると酸素マスクをした母は意識が戻っていました。私はホットしました。

母はその後1ヶ月入院して退院したのは2月1日でした。入院した病院が私の勤め先から近いこともあり、入院中はほぼ毎日仕事帰りに母の顔を見に来ていました。面会時間は夕食時とあってときどきヘルパーさんに代わって私が食事を食べさせていました。食事は流動食で食欲はなく病院の食事を多く残していました。母は食事以外の時間はだいたい寝ていて、それでも私が「帰るよ」と言うと手を振ってバイバイしてくれました。入院中に施設の職員さんと他の入居者さん達が作成した折り紙のつるし飾りをお見舞いに届けてくれ、母はその折り紙の飾りを珍しそうに見つめていました。

今も自宅にある「折り紙のつるし飾り」

入院いていた母の状態は退院後に元のグループホームに戻るのは厳しいようです。グループホームでは前年秋頃から母の体調が少しずつ悪くなり、ここの施設での介護ではお母さんは厳しくなっているので特別養護老人ホーム(特養)を探すように言われていました。しかし川越市内の特養は何処も空きが無く、直ぐ入所できるところはありませんでしたから、このまま退院しても母を受け入れてくれるところが無い状態でした。

1月の半ば頃から私は川越市内とその近辺の特養を探し回っていました。何カ所か特養を見学させて頂いている途中、さいたま市の特養にショートスティで入り、空きが出来たら入所というパターンでそこへ行くことになったのです。いま考えてみると特養を探している最中に受け入れてくれるところが見つかったことは運が良かったのかも知れません。

退院のとき、同じ相部屋の他の患者さんから大層祝福して頂き母も喜んでいました。ただ、退院後はずっと車椅子になってしまったので退院後の最初の通院は介護タクシーを利用しました。ショートスティで入ったさいたま市の特養では西側の日当たりの良い部屋でした。その施設で私が母に面会できたのは2回だけで以後コロナウイルス感染拡大防止策ということで面会ができなくなっていたのです。

ショートスティなので薬がなくなると入院していた病院へ薬を貰いに行かなくてはなりません。本来なら母を連れて行き先生に診察して頂いて薬を貰うのですが、コロナ感染防止策のため私が代理で薬を貰いに行きました。薬を頂き母の施設へ届けに行きましたが、そのときでも母には会わせて貰えませんでした。

5月も後半になりその時点でもショートスティのままで、6月になれば5ヶ月目になります。母が居るさいたま市の特養と同じグループが運営する鶴ヶ島市の特養がこの4月にオープンしていました。鶴ヶ島市の特養もさいたま市の特養も川越市の自宅からの距離は同じぐらいです。私はその施設へまだ空きがあるか尋ねてみると2割方はまだ空きがあるということでしたので、さいたま市の施設の担当者に鶴ヶ島市の施設へ移れないか聞いてみたのです。そしてその後はトントン拍子で事が運んで行きました。

5月31日に鶴ヶ島市の特養へ移りました。ようやく落ち着くことが出来そうで私は内心ホットしていました。その引っ越しの日に私は約3ヶ月半振りに母に会うことが出来たのです。母の姿は以前と殆ど変わりなく私の顔を見て少しだけにっこりと笑ってくれました。このときに見た母の姿が生きている最後の姿になるとは、そのときの私は想像も出来ませんでした。新たな施設でもコロナウイルス感染防止策で面会は禁止されていたのです。

8月の終わり頃に施設から電話がありました。母の体調が悪いので病院へ連れて行ってほしい。身体を触ると痛がる、手が震える、などの症状があるということでした。そのような症状は以前のグループホームでもありましたので、何処の病院の何科を受診しますかと聞くと正月に入院していた病院を指定されました。私は先日に自分自身の通院で会社を休んでいたので、兄に電話をして母を病院へ連れて行って貰えるか聞いたところ了解してくれたので今回は兄に任すことにしました。

9月7日に母は兄に連れられ介護タクシーで病院を受診しました。そのとき血液検査がよくなかったらしく点滴をしてその日は施設へ戻ったようです。11日の夜に兄が報告で私のところへ来ました。兄が見た母は体調がかなり悪そうだったと言います。そして、もしも亡くなったときのことを考えておいた方がよいと言いのです。そんなに悪いのか、私は心配になりました。

翌朝私は電話の音で目が覚めました。午前6時ぐらいだったと思います。こんなに早く何だろう。その日は土曜日で私は仕事が休みでした。電話に出ると母の施設からで母が亡くなったことを告げたのです。ちょっと待って、あまりに突然の悲報に私は慌てました。
母が亡くなったのは午前0時過ぎだと言い、0時半頃に私の処へ電話を掛けてきたが出なかったと言っています。その夜私は疲れて早めに寝ていました。また暑かったのでエアコンと扇風機をつけていました。電話器は私の寝室の隣で、携帯電話は日頃から枕元に置かないようにしていたのです。私は母が亡くなったことを兄に電話しましたが私の声は震えていました。

午前8時過ぎだったと思います。再度の連絡があり医師からの説明があるので来てほしいと言いました。私はそのことを兄に電話で伝え施設へ車で向かいました。施設へ着いたときは医師からの説明は終わっていて兄は先に着いていました。私と兄は母の遺体と面会しました。お母さん顔が痩せている。「お母さん、ほんとに死んじゃったの」私は母の頭を撫でました。

午前0時過ぎに夜勤担当の職員が母の部屋を見回りに来たときには母は脈が無く息もしていなかったそうです。急に亡くなってしまったようです。死亡診断書の死亡の原因として、直接の死因は脱水症による不整脈。施設の職員の話ではご本人は痛みも苦しみも無く眠るように息を引き取ったのではないかと言うことでした。母の顔は確かに眠るように穏やかでした。

母は90歳を過ぎていて、私としてもいつ亡くなっても覚悟は出来ていましたが、最後に会った3ヶ月半前とその前約3ヶ月半の間、全く会えず母のそばにも行けず、このような最後を迎えるとは想像もしていませんでした。この間に母はどのような心境で過ごしていたのでしょうか、今となっては知る由もありません。母は息子の私が会いにくるのを待っていたのではないかと思うと胸が苦しくなります。施設へ母の状態や過ごし方を電話で尋ねると、いつも「穏やかに過ごされています」とだけ言われて会えないのは仕方が無いのだと何も対策を取らなかった自分が悔しく、ただ残念です。

母は人に迷惑をかけないように生きてきた人だったのだと思います。こと息子の私にはそんな気遣いが沢山ありました。最初のグループホームへ入所させたときも母は私に文句ひとつ言いませんでした。息子に迷惑をかけないでここで我慢をするのだと、そう思っていたのかも知れません。母が亡くなった夜に施設の人が夜中に電話してきたそうですが、そのとき私は電話に気付かず寝ていました。母は、夜中に私を起こしては可愛そうだと朝まで眠らせてくれたのかも知れません。

昨年の暮れにグループホームの主治医から母の現在(そのときの)の状況についての説明がありました。認知症の進行、食欲低下、突然死のリスク、事故のリスクについて説明を受けました。心肺停止時同意書も書きました。いま思えば、そのころから母の命のカウントダウンが始まっていたのだと思います。次いでお正月に意識を失い入院してしまいましたが無事に退院できて私自身の気の緩みがあったのだと思います。特養に入所できて当分は安泰なのだと勘違いしていたのだと思います。

私は子供の頃や若い頃は母に迷惑をかけてばかりでした。山岳会をやっていた頃の母は随分心配していたのだろうなと思います。私がやりたいことを反対していても最後はいつも認めてくれる優しい母でした。父の時もそうでしたが自分はちゃんと親孝行できたのだろうか。

母を施設へ入居させて私は一人暮らしに慣れていたはずです。それでも母に会いたければ面会に行けば会えました。しかしこれからはもう会うことはできません。母の部屋の桐のタンスの中を整理していると古い写真や古い手紙などが沢山出てきて、それらを見ていると生前の母との思い出で涙が溢れます。心が癒えるまで、今暫く時間が掛かりそうです。

母は良い人生を歩んだのだと思います。「お母さん、ありがとう」。

昨年の母の誕生日にプレゼントしたベコニアの花

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