桜の咲く多賀城跡を散策しました

4月中旬に東北地方の史跡巡りで多賀城跡へ行ってきました。
多賀城がどんなところかは、下記の宮城県多賀城跡調査研究所のホームページをご参照ください。

http://www.thm.pref.miyagi.jp/kenkyusyo/explanation_tagajoato.html
http://www.thm.pref.miyagi.jp/kenkyusyo/guidance.html

関東では今年の桜は、「あっ」というまに開花して散ってしまいました。桜の花もよく見ない間になくなり、何となく名残惜しく思っていましたが、それならば桜の咲いているところへ行けばよい、ということで東北方面へ出掛けてみました。

多賀城跡はブログ作者も初めてのところで、史跡巡りとしては一日歩いても楽しめる場所です。今回訪れたのは多賀城跡の政庁域を中心とした外郭内のみです。

多賀城跡は国指定特別史跡になっています。古代多賀城へは東山道が西側から接続していました。多賀城南の東西大路(道幅約12メートル)が多賀城政庁から南に延びる南北大路(道幅約23メートル)と交わったところを北へ向かいます。やがて外郭南門が現れます。現在ではそこが外郭南門跡になります。南門は多賀城の正門であり瓦葺で屋根が二重になっていたといいます。現地解説版によると将来この門を復元する予定があるそうです。

南門跡を入ると直ぐそこは多賀城碑が建つところです。碑は覆屋の中にあります。多賀城碑には平城京などからの距離と、多賀城設置と修造などの事柄が具体的な年代と共に刻まれています。

南門と多賀城碑があるところは周囲より高台になっていて、その高台を北へ下りると現在舗装道路が東西に走っています。上の写真は舗装道路から政庁へ続く政庁南大路跡を眺めたものです。

政庁南大路は外郭南門から政庁へ南北に真っ直ぐ通じる道です。発掘調査によると政庁第Ⅰ~Ⅱ期(8世紀)には幅が約13メートルで、政庁第Ⅲ~Ⅳ期(9から11世紀中頃)には幅約23メートルもあったといいます。

政庁南側斜面は自然石を並べた階段が設けられ、排水用の石組設備(暗渠)もあったようです。現在では政庁第Ⅰ~Ⅱ期の姿に復元整備されています。

政庁の高台から南大路を見下ろすと荘厳さが感じられます。この道路は13メートルから23メートルと拡幅されているとのことですが何故そんなに広い幅が必要であったのでしょう。古代道の広い幅は権力の象徴を現しているともいわれます。

鎮守府としての多賀城を考えると、この道路の広さは通路という機能の他に、そこで何らかの特殊な儀式を行う場であったのではないかとも思えてくるのです。定期的に軍事パレードのようなものが大路で行われていたと考えるのはどうでしょうか。

古代の人が官衙を築きたくなるような、そんなだらかな高台の上に政庁があります。政庁の範囲は東西103メートルで南北116メートルということですがこれはかなり広いです。多賀城の政庁は4期の変遷が確認されています。

第Ⅰ期は大野東人による多賀城が創建された時期、第Ⅱ期は藤原朝狩により多賀城の大改修が行われた時期、第Ⅲ期は伊治公呰麻呂による焼き討ち後に再建された時期、第Ⅳ期は陸奥国大地震被災後の復興時期となっています。

第Ⅳ期の陸奥国大地震は東日本大震災後によく比較される平安時代の貞観地震(869年)のことです。東日本大震災でも多賀城市では津波による被害が起こりましたが、『日本三代実録』には貞観11年の地震で陸奥国府城下まで津波が達し千人ほどの死者が出たと伝えています。尚この記事の陸奥国府は多賀城と解釈するのが一般的ですが、岩沼の武隈の館とする説もあるようです。

政庁は築地塀に囲まれた区画で、南に南門があり中心には正殿がありました。南門と正殿の間の東西には東・西脇殿があり、第Ⅱ期には正殿の左右に東・西楼と正殿後ろには後殿がありました。また正殿前の広場は石敷になっていたようです。

上の写真は基壇が復元された正殿跡です。正殿は礎石建物で東西7間、南北4間で解説版や復元模型では二層建てになっています。この正殿の大きさは大凡で正面23メートル、奥行き12メートルで、例を挙げれば奈良興福寺の東金堂の大きさに近いようです。

多賀城には政庁の他に実務を行う役所が6地区ありました。その多くが第Ⅲ期に成立したり再整備されたりしています。上の写真は多賀城北西部にある外郭東門跡です。この門は政庁第Ⅲ期の平安時代初期のもので瓦葺き八脚門でした。また手前の築地塀が折れ曲がるところの左右には櫓も建っていたようなので警部が厳重だったのでしょうか。

下の写真は外郭東門跡から西へ延びる幅16メートルの道路です。平安時代にこの道路の東門付近には小石や瓦が敷き詰められていたといいます。

下の写真は大畑地区の東にある大きな掘立柱建物跡です。政庁第Ⅱ期(奈良時代)に建てられたもので、南北15間(約45メートル)以上、東西4間(約12メートル)もあり多賀城で最も大きな建物であったようです。南北15間は圧倒される大きさで、いったい何に使われた建物なのか、倉庫のような建物であったのでしょうか。掘立柱建物跡の北側には外郭東門跡があり、そこから東の国府の津(塩釜港)へ結ぶ道があったといいますから、港から引き入れた荷はこの建物へ運ばれたのかと想像したりします。

ここまで早歩きで多賀城外郭内を歩いてみましたが、多賀城に関連する遺跡はその外側にもあります。歴史好きな人や古代遺跡ファンは一度は訪れてみたいところです。

参考資料
古代交通研究第9号 特集 多賀城方格地割と交通 山中章

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