川越市小仙波町の馬頭観音道標

数年前から江戸時代の道標を写真撮影し、簡単に計測したデータと共に岡山大学名誉教授の馬場俊介先生へ送る作業を続けています。

当初は川越市とその周辺だけで終わる予定でしたが、県外の東京都・神奈川県・群馬県・栃木県・茨城県と遠方にも道標を探して旅しています。

道標とは不思議なもので、今では道端の石仏を発見すると道標銘が刻まれていないか注意深く観察するようになりました。そしてあの道標銘の文字を見ると嬉しくなってしまうのです。

そこで今回はブログ作者の地元川越市の注目すべき道標を一つ紹介致します。

川越市小仙波町の馬頭観音道標です。

川越市喜多院は現在東向きに伽藍が建っています。山門前からは東に真っ直ぐ伸びる道があります。山門を出たところの南側には、あまり知られていませんが仙芳仙人塚というものがあります。また山門前の日枝神社の南側は本地堂瑠璃薬師殿跡と伝えています。

山門前の道を東へ進むと左手に小さな喜多院黒門址の碑が見られます。この喜多院から東へ伸びる道はその名も喜多院門前通りといいます。やがて真っ直ぐな道は緩やかな下り坂となって行きます。

喜多院の前からおおよそ500メートル程進んだところは五叉路になっていて、そこは坂を下りたところで信号もある交差点です。そこの五叉路東側に馬頭観音の石仏が西向きで立っています。

この馬頭観音石仏を止まって見る人は殆どいないようです。それよりもこの五叉路は自動車の通りも多く、ここに立ち止まることは注意が必要なのです。

ブログ作者はこの五叉路に石仏があるのは以前から知っていましたが、この石仏が道標であることは知りませんでした。やはり立ち止まって石仏を見る余裕はなく、長く立ち止まっていると自動車が通るので危険を感じるところなのです。

川越市の道標を探し始めた頃の資料は、図書館にあった『川越の石佛』という本で、そこから道標を抜き出して探しに出掛けていたのです。

ところがこの『川越の石佛』の中にこの小仙波の馬頭観音が載っていなかったのです。或いは私が見落としていたのか、けっきょくこの道標を撮影する機会は後々になってしまいました。

川越市内の道標を一通り撮影した後で、他にも道標がないかと図書館の本を探していると『川越市歴史の道』という資料に目が止まりました。この資料は以前にも鎌倉街道の資料として目を通していましたが、石仏や道標のことはあまり注意して見ていませんでした。

この資料の「与野道」という項に、小仙波の馬頭観音道標として載っていたのです。

早速に現地へカメラを持って出掛けてみました。見事な道標です!

正面(西向き)に梵字(馬頭観音のカンと思われます)観世音と刻まれています。
その下の台石には、普門品 十万巻 供養塔 とあります。

右面(南向き)には 右 飯田舟渡 飛き又 王良飛 道

左面(北向き)には 左 老袋舟渡 与の 於ゝ宮 道

裏面(東向き)には 嘉永二巳酉年霜月 願主 當邑講中

台石の側面には 寄進者として周辺村々の名が記されています。

道標のサイズ 高149㎝(うち、台石54㎝),幅38㎝,厚38.5㎝

右面の「飛き又」は「引又」で現在の志木市にあった引又宿への道です。新河岸川と柳瀬川が合流するころで、当時は引又河岸があり川越と江戸との舟運である物資の輸送のため中継地点でした。また引又は奥州道が通り、野火止用水が流れるところでもありました。

「王良飛」は「わらび」で現在の蕨市です。中山道の宿場がありました。

左面の「与の」は現在のさいたま市与野(旧与野市)で中世から市場があったところで、江戸時代には中山道浦和宿と川越を結ぶ経由地でもありました。

「於ゝ宮」は現在のさいたま市大宮で、中山道大宮宿への道です。

右面の「飯田舟渡」と、左面の「老袋舟渡」は現在ではあまり聞き慣れないところです。

飯田舟渡は現在のさいたま市西区飯田新田と富士見市東大久保を結んでいた船着き場で「昼間の渡し」と呼ばれたところです。旧荒川(旧入間川)には飯田河岸がありました。

老袋舟渡は現在の川越市古谷上から下老袋付近にあった荒川(旧入間川)の渡し場です。現在荒川の左岸にも川越市になっているところがあります。古谷上の握津は廃村で握津公民館だけがその地に残されています。

握津公民館の南側を東西に通る道は旧道と思われ、公民館前には天明2の馬頭観音像道標あり、(右面)「東 あき者 よの 江戸 道」、(左面)「西 川越 おふや満 ちゝふ 道」、(裏面)「北 あけを 者らいち 岩つき 志をん寺 道」と刻まれています。

小仙波町の馬頭観音道標から南東方面への道が飯田舟渡へ向かう道で引又道といいます。一方の北東方面への道が老袋舟渡へ向かう道で与野道といいます。

北東への与野道へ少し進むと新河岸川を渡る橋があり琵琶橋と呼ばれています。明治時代の古い地図を見るとこの橋のところに川が無いことに気付きます。

実は仙波河岸より北側の新河岸川は新たに付けられて河道で、以前の新河岸川は上新河岸付近から現在の九十川を遡り伊佐沼から流れていたのです。

琵琶橋とは元は喜多院の直ぐ東にあり、現在の寛政四年銘敷石供養塔があるとことにあったといわれます。

 

現代人は道端の石仏を見るこたが少なくなっていると思います。便利さを求めることで失われたものを見つめ直す為に石仏(古い道標)に接してみるのは如何でしょうか。

尚、ここで記載させていただいた道標銘文字は馬場俊介先生に写真をお送りして読んでいただいたものを使用しています。江戸時代の人々は、どんな文字で地名を記していたのか、なかなか面白いものがあります。

※ 古仙波町の馬頭観音道標を現地で見るときは通行する自動車にご注意ください。

 

タイトルとURLをコピーしました