さいたま市桜区で道標石仏を探していました。西堀9丁目城北信用金庫西堀支店の西側細い道、坂道と交差する角に4基の石仏が仮屋の中に並んでいるのを発見しまた。
仮屋は新しく、奥の壁にある解説文によると「平成25年2月」とあります。探していた石仏は『郷土の石仏』写生行脚一期一会という本の石仏一覧表にあるさいたま市桜区西堀9丁目北信裏路傍の道標を兼ねた庚申塔でした。
解説文には「日向鎌倉街道の石造文化財」と題して以下の説明が書かれていました。
「この前を通っている道は鎌倉街道と呼ばれきた古道です。ここにある四基の石造物は、右から馬頭観音(宝暦五年ー1755)、庚申塔(宝暦七年)、庚申塔(文化十年ー1813)そして二十三夜塔(嘉永二年ー1849)です。農耕や運搬に使う馬の保護、庚申信仰、月待供養など当時の人々の様々な民間信仰を知ることができます。
そしてもう一つ大切なことは、右の一基以外は全て道標になっていることです。最初の場所から動いているものもありますが、石塔は旅人に道案内をする役目を持っていたのです。特に一番大きな石塔の背面には、よの(与野)道、はやそ(早瀬)道、とうまん(道満)道、わらひ(蕨)道、江戸道というように、行先の地名が刻まれています。
これらの石造物は、この地域の歴史や文化を知る上で欠かせない大切なものであり、このたび、将来にわたって保存を図るために日向地区の多くの方々の浄財を募って整備が行われました。 平成二十五年二月吉日 日向鎌倉街道石造文化財保存会」
以前に「さいたま市北区奈良町の鎌倉街道」というホームページを作成していて、大宮台地を通る鎌倉街道を紹介したことがありました。その鎌倉街道は「鎌倉街道羽根倉道」と伝わる古道で、南側は与野本町南端(庚申堂前)から西に折れて荒川の羽根倉の渡しへと向かい、最終的に所沢付近で鎌倉街道上道に接続する古道と伝えられています。この従来説に対して私は一つの仮説をたて、与野より南も台地上を南下して戸田付近に残る鎌倉街道伝承地を経て早瀬の渡しで荒川を渡り都内板橋区赤塚付近の鎌倉街道伝承地へと繋、最終的に鎌倉街道中道へ合流する幹線ルートを想定してみたのです。
そのとき調べた資料には与野本町から戸田付近へ結ぶ想定ルート上に鎌倉街道伝承地があまり無かったのですが、今回この西堀に日向鎌倉街道というのを見つけ
て驚いていました。ここは与野本町と戸田の鎌倉街道伝承地への中間で、近世の与野道と呼ばれた道が南北に通り、この道の前身が鎌倉街道であった可能性がお
おいに考えられるのです。
石仏探しをしていて時々残念に思うことがあります。資料に載っていたはずの石仏が無くなっていたり、石仏は有れども倒れて草に埋もれているものが あったり、特に残念に思うことは、付近の住民の方に石仏の所在を聞いても知らないと言われ、更に興味ないと聞いてもいないことを言われることです。知らないと言われても仕方がないとも思います。殆どの住民は近年土地開発で移り住んできた人々が殆どなのですから。
そのようなことがあったものですからこちらの解説文の「このたび、将来にわたって保存を図るために日向地区の多くの方々の浄財を募って整備が行われました。」と書かれているのを見て、文化財を大切に扱う人々の行為に有り難さと嬉しさを感じてしまいました。
仮屋の背面壁には日向鎌倉街道の解説文と更に周辺古道の古図及び宝暦7年庚申塔道標の背面文字の拓本が貼られています。そこの古道地図によると南北を通る与野道からこの付近で西へ折れてゆく道が描かれています。ここの石仏はその分岐にあったものなのでしょう。その西へ折れる道も鎌倉街道であったのか。或いはその道が日向鎌倉街道なのか、詳しいことは調べていないのではっきりしたことは分からないのですが、西へ向かうこの古道はその先何処へ向かっているのでしょうか。考えられるのは現在の秋ヶ瀬橋付近で荒川を渡り、志木市の引又道(奥州古道)へ接続するというのが想像できそうです。ここ日向鎌倉街道の詳細は今後の研究課題としたいと思います。
より大きな地図で さいたま市桜区西堀の道標石仏 を表示