大宮大地の鎌倉街道羽根倉道

 

 

上の写真は三貫清水緑地内を南北に通る鎌倉街道の北端で、この写真の鎌倉街道を塞ぐような網フェンスは大宮北高校のものです。かっての鎌倉街道は大宮北高校のグランド内へと続いていたのでしょう。

羽根倉道の所沢市付近と大宮台地を結ぶ路線の分析
正平7年(1352)に足利尊氏は新田義興・義宗軍と金井原(小金井)と人見原(府中)で合戦(武蔵野合戦)しています。何故この両地で戦いがあったのか、先にも書きましたが、大宮台地から武蔵府中へ直線で繋ぐと都内域では小金井街道に近い道筋を辿ることが想定されます。鎌倉街道上道の所沢市付近から分岐したという羽根倉道は、或いは小金井街道に近い道筋で武蔵府中と繋がっていたと考えてみるのも面白いものです。そこで推測として、小金井街道は部分的に古代の伝路を踏襲しているのではないかという発想です。羽根倉橋のすぐ東側にはさいたま市の大久保領家遺跡並びに道場寺院跡の遺跡があり、この両者付近には古代足立郡衙が推定されています。(足立郡衙は大宮氷川神社付近の氷川神社東遺跡でも推定候補地になっていますが、そちらは大久保領家遺跡付近の郡衙よりも新しい郡衙との説があります)武蔵府中と足立郡衙を結んでいた伝路(新座郡の郡衙も経由していたかも知れない)があって、その伝路が後に鎌倉街道としても利用されたと考えると、鎌倉街道上道と大宮台地を結ぶ路線の存在の意味が納得されるのです。この路線がさらに後に何らかの理由で、所沢市付近から羽根倉橋へのルートに変遷したのではないかと考えてみるのは如何でしょうか。

 

 

上の写真は三貫清水緑地の鎌倉街道の北端から南側の鎌倉街道を撮影したものです。

大宮台地から南下し鎌倉へ直結するルートは存在したのか
さて、この辺で先にも少し触れた大宮台地から相模国鎌倉へ直接繋いでいたかも知れないルートについて語ってみたいと思います。さいたま市大宮区櫛引観音堂の西側から鎌倉街道羽根倉道の南側の道筋は鴨川左岸の台地上をほぼ南進し大宮区と中央区の境付近で与野本町通りへ進んだものと考えられています。またその付近で鴨川の藤橋へ向かう道もあったようなのです。『県内鎌倉街道伝承地所在確認調査報告書』によれば与野本町通りへ進むのが羽根倉道の本線のようですが、この付近には他に鎌倉街道と伝わる道が幾つかあるようです。与野本町通りは中世後期には市があったところと伝えています。(「市場祭文」に中世後期の武蔵国を中心に三十三カ所の市が列記されていて、その中に与野の市場もみられます)与野本町は近世にも中山道脇街道が通り賑わっていたところで、北は上町氷川神社から南は庚申堂の分岐付近がその中心で、道沿の西側に円乗院という寺院があります。

 

 

『新編武蔵風土記稿』与野町の項に「当所は相模・甲斐の二国より陸奥国への往来にして、人馬の宿次を勤む此道は古の鎌倉街道なりと云う」とあり、『与野市史』には南北に続く現在の本町通りを指しているとしています。さらに「与野という地名は、鎌倉時代末の正和3年(1314)に成立した『融通念仏縁起絵巻』の正嘉疫癘の段に『武蔵国与野郷』と出てくるのが初見である。またこのなかに与野市に隣接し、現在浦和市域になっている『道場』という地名も記されているが、この地は、市内にある円乗院がもとあったところといわれており、やはり街道から程近いところにある。こうした古い地名や伝承が残されている場所も街道の道筋を考える上で、一つの証左になると思われる。」

何故この地にあるのか畠山重忠伝承のある道場館跡
円乗院は畠山重忠が建久年間(1190〜1199)に、さいたま市にあった道場村に堂宇を創建したのが始まりであるといわれ、その後慶長初年頃に賢明上人が現在の与野市に移建したと伝えています。さいたま市道場には畠山重忠の館であったと伝わる道場館跡(金剛寺付近)があり、現在は遺構などは残されていませんが、かって東西南北が600メートル近くあったといい、館跡としては大変大きなものです。そんな大きな館跡が畠山重忠の館で何故この地にあったのかは謎ですが、伝承があるということは、この地が畠山重忠と何らかの関連があったからなのではないでしょう。そこで気になることは、重忠の妻といわれるのが足立遠元の娘で、その足立遠元の館伝承地が道場から2キロメートルほど北の地にあることです。鴨川の藤橋の南西付近と伝えられています。足立遠元の館は桶川市にも2箇所ほど伝承がありますが、道場の重忠館が鴨川藤橋付近の足立遠元館と何か関連があったかも知れないと考えたくなります。また、道場の地は荒川(旧入間川)に近く、川を遡れば旧川本町の畠山重忠館跡や嵐山町菅谷へ水運で移動できるのも見逃せません。さらに想像を広げると畠山重忠が亡くなった二俣川が鎌倉街道上道ではなく中道にあるのはこれも道場館と何か関連があったのかも知れません。この道場の地から二俣川へは直線で結ぶと近道になるのです。

 

 

上の写真は三貫清水緑地の鎌倉街道の北端からの入口に立つ「鎌倉街道」の標柱です。南側の道が交差するところにある標柱と同じ作りです。

与野から相模国と甲斐国への二つの道があったとしたら
上の説明で、『新編武蔵風土記稿』の「相模・甲斐の二国より陸奥国への往来にして、」と、この説明についてちょっと考えてみたいと思います。与野の大宮台地から相模国と甲斐国では両者とも方向が大夫違います。これを与野から相模へ向かう道と、甲斐へ向かう道があったと考えてみます。甲斐へ向かう道は羽根倉橋を渡り鎌倉街道上道と合流して武蔵府中経由で甲斐へと繋がっていたとします。一方で与野本町南の庚申堂から西の諏訪坂へ向かわず、真っ直ぐ南進する道が相模への道と考えるのは如何でしょうか。ある程度鎌倉街道を知る人からは南進する道は鎌倉街道ではないと否定されてしまうことでしょう。『新編武蔵風土記稿』には美女木村(現在の戸田市美女木)の八幡神社の由来について次のようにあります。「社伝に云、後鳥羽院御宇文治五年右大将頼朝奥州下向の時、当院に寄宿し霊夢の告により、相州鶴岡八幡を写して勧請せしめし所なりといえど、往古のことなれば其詳なることを知らず」とあります。頼朝が文治5年(1189)の奥州藤原氏討伐に向かったルートは「中路」で、いわゆる鎌倉街道中道ですから、現在の戸田市美女木を通過しているはずはなく、『戸田市史』には、「この伝承の真偽は疑問とせざるを得ない。」としながらも、「現在の戸田市域内にもかって鎌倉街道と称する道が、佐々目郷を南北に貫通する形で通っていた。」と書かれています。
この『新編武蔵風土記稿』の美女木村八幡神社について、頼朝が霊夢により鶴岡八幡を勧請したという記事を書いた人物は、何故嘘であるかも知れないこの話を載せたのか。そこには何か隠された意図があったのかも知れません・・・?。

 

 

上の写真は三貫清水の名の由来になったと思われる湧水池です。緑地の西縁に二池あり、写真は南側のものです。この池のそばに説明版と三貫清水の碑があります。

戸田市内に多くみられる鎌倉街道伝承
『戸田市史』には次のように続きます。
『新編武蔵風土記稿』の足立郡下笹目村(現戸田市笹目)の項に「村内一条の往還あり。美女木村より早瀬の渡へ達す。是古への鎌倉街道と云」とある。また早瀬村(現戸田市早瀬)の項に「村の中央を貫く一条の往還あり。古への鎌倉海道と云ふ」、さらに美女木村(現戸田市美女木)・内谷村(現浦和市内谷の)の項にもそれぞれ「当村にも鎌倉古街道係れり」などとある。したがって入間川を早瀬のところで渡河し、戸田市西部に位置していた佐々目郷を南北に貫く道筋が、かって鎌倉街道と称されていたことが知られるのである。鎌倉街道「中道」の脇街道ないし枝道の役割を果たすものではなかったかと思われる。
このように『新編武蔵風土記稿』には戸田市とその付近の村々に鎌倉街道伝承が多いことから、戸田市西部には鎌倉街道中道の脇街道か枝道が南北に通じていたということのようです。そしてここで語られている鎌倉街道は、旧与野市から南進した道と考えてもよさそうです。さらにその先の、早瀬から荒川(旧入間川)を南へ渡り、中道へ合流するような鎌倉街道があるのかどうか調べてみました。

 

 

上の写真は、三貫清水の池南側のところにある三貫清水の碑です。

赤塚城跡とその周辺の古い文化財
戸田市の早瀬から荒川(旧入間川)を南へ渡った場所は、かっては徳丸ヶ原の湿地帯(現高島平)でしたが、しばらく南へ行くと武蔵野台地へ上ります。その上り口にあるのが赤塚城跡です。赤塚城は豊島氏一族の赤塚氏による築城と伝えていますが赤塚千葉氏により城域は整えられたものとされています。享徳の乱の後で康正2年(1456)に下総国から逃れてきた千葉実胤・自胤兄弟は扇谷上杉氏の家将太田道灌の庇護のもと、実胤は石浜城(荒川区南千住)、自胤が赤塚城に入城しています。赤塚千葉氏はその後は小田原北条氏の家臣として活躍していましたが、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの後に赤塚城は廃城となりました。この赤塚城のそばを鎌倉街道が通っていて、付近には「大門」「出口」など、街道と関連がありそうな地名がみられます。千葉氏の菩提寺である松月院には元徳元年(1329)の年号がある宝篋印塔があり、また近隣の大堂は平安時代初期の大同年間創建と伝え、暦応3年(1340)鋳造の梵鐘もあります。このように川を渡って南側の台地に上がった場所には古い歴史や文化財が多くみられ、鎌倉街道が通っていたことが想像されます。

 

 

上の写真はさいたま市北区奈良町の大宮北高校の北側を東西に通る道と鎌倉街道とが交差していた付近にある道標を兼ねた秩父・西国・坂東百箇所供養塔と馬頭観音の石塔です。

北倉庄一氏がホームページで説明している「阿佐ヶ谷道」
板橋区赤塚から鎌倉街道はどのようなルートで南へ向かっていたのでしょうか。北倉庄一氏の『街道を尋ねて』のホームページに「身近な古道」というページがあり、その中に「阿佐ヶ谷道」というのがあります。それによりますと、松月院から南は練馬区早宮の本寿院西側を通り、練馬城跡地の豊島園の東側、西武新宿線鷺宮駅手前の鷺宮八幡、古代の交通路に関する「乗瀦駅(のりぬまえき)」の 比定地の本天沼、JR中央線阿佐ヶ谷駅(阿佐ヶ谷は中世の文書に 「あさがや殿」とあるように、ここには有力な勢力がいたといわれ、少なくとも中世の後期足利時代にはかなりの拠点であったことがわかっています。 北倉庄一『街道を尋ねて』より)、さらに北倉氏は「阿佐ヶ谷駅から大宮八幡まで」のルートを紹介しています。杉並区の大宮八幡から南は『武蔵野名勝図会』に出てくる上下高井戸の鎌倉橋から登戸の渡しへ向かう道がありますが、仮に鎌倉へ直結するならば、真南へ向かい、豪徳寺・世田谷城・世田谷八幡付近から鎌倉街道中道へ接続していた可能性も考えられるのではないでしょうか。そしてその南は中道で鎌倉へ通じていたとすれば、鎌倉から与野市の大宮台地へ繋がる最短なルートになると思います。またこのルートのやや西側の環状八号線も古道がもとになった道(芳賀善次郎氏 旧鎌倉街道探索の旅 中道編)といわれ、戸田市笹目から世田谷の鎌倉街道中道への脇街道であったかも知れません。

北倉庄一氏のホームページはこちらです。 「街道を尋ねて」

 

 

道の要所であることを告げる道標を兼ねた供養塔
秩父・西国・坂東百箇所供養塔は文化10年(1813)に立てられたもので、道標を兼ね、「西、あきは道 東、阿けをみちいわつき道、ぢおんじ道 南、与野道」と彫られています。供養塔の前の東西道を西へ向かうのが「秋葉道」で中釘の秋葉神社へ向かいさらにその先は川越まで続いています。逆に東へ向かうと上尾・岩槻(慈恩寺)への道です。南北の道は鎌倉街道で南は大宮北高校のグラウンドの中を突き抜け、三貫清水の鎌倉街道から与野へと旧道が通じていたのでしょう。ここから北へ向かうと奈良瀬戸村の鎮守である武国神社があります。明治40年に当地にあった氷川神社を武国神社と改称しています。武国神社境内裏はかっては山林で、昭和36年から3回にわたる発掘調査が行われ、縄文時代の遺跡が確認され、住居跡をはじめ大量の土器と土偶、耳栓などと、また石器類が大量に出土しています。この遺跡は「奈良瀬戸遺跡」と呼ばれていて、当地からは古代瓦も出土していることから古代寺院があったとも考えられています。大宮台地を南北に通じる鎌倉街道沿いには古代から中世の史跡・遺跡が沢山みられ、この台地上の道がかなり古くから存在し重要なものであったことが想像されるのです。

 

岡部六弥太忠澄の伝承がある別所町の長福寺から大量の板碑が
鎌倉街道は武国神社の北側でいったん谷地を通過します。谷を流れる川を渡れば、さいたま市北区の北端部になる別所町です。別所町にはかって長福寺という寺院がありましたが、現在では別所稲荷神社の西隣りに共同墓地があり、神社の北側のさくら保育園が長福寺のあったところだといいます。上の写真は別所稲荷共同墓地を撮影したものです。平安末期から鎌倉初期の武士であった岡部六弥太忠澄が足立郡内に六箇所の「別所」村名を置いたことが伝えられていますが、ここの別所もその一つで大谷別所村と呼ばれていました。長福寺はその岡部六弥太により弘仁3年(812)に開基された寺院であったと伝え、付近からは鎌倉時代初期の懸仏千手観音像・花瓶が出土しています。また現在の共同墓地のあるところにはかって阿弥陀堂があり岡部六弥太の持仏堂であったと伝えます。この共同墓地を整備していたときに平安〜鎌倉時代の蔵骨器と二百基余の板碑が発見されています。そもそも別所と呼ばれる地名は鎌倉街道沿いにはよく見かけられます。『新編武蔵風土記稿』に多摩郡の別所地名について「或云、薬師堂のある処を多く別所と号す、これを似て他の別所と云地名をたずぬるに多くは然り」とあり、仏堂のあるところとしています。

鎌倉街道はここから北側で直に上尾市に入り、西宮下で東に急に折れ曲り、愛宕交差点の北側で国道17号線を横断します。東町公民館前から芝川の鎌倉橋を渡り二ツ宮氷川神社の前に出ます。その先は平塚から伊奈町へ入り、蓮田市、菖蒲町を経て加須市大越で鎌倉街道中道(奥州道)に合流していたと推定されています。

 

 

上の写真は別所町稲荷共同墓地内に見られる板碑片です。出土した二百基余りの板碑は現在は見ることができませんが、写真の板碑片でも中世を偲ぶことができます。

さいたま市より北側の羽根倉道の支線か別ルートの存在
上尾市に入って東に急に折れ曲がる鎌倉街道羽根倉道ですが、別に北方へ直進する道筋もあったかも知れません。その道筋はやがて旧中山道に近いルートで鴻巣市、行田市、熊谷市、深谷市、岡部町まで繋がっていて、岡部六弥太忠澄一族の墓がある普済寺へと結ばれていた可能性も考えられます。また行田市付近から群馬県(上野国)へ通じていた鎌倉街道もあったようで、上尾市から北進してそこへ通じていたこともまた考えられそうです。さらに大宮台地から北へ向かう鎌倉街道として『北本市史』には「市域の石戸宿にも鎌倉街道が通っており、それはこの羽根倉道の支道であろう。与野市本町・大宮市植水を経て、上尾市平方・畔吉・桶川市川田谷を通過し、市内に入り石戸宿に達したという。そして、小字横田市場より北上し、市内荒井の須賀神社、高尾の氷川神社付近を通って高尾の中井より鴻巣に出て、行田市を抜け上野に達していたといわれる。」この荒川左岸を南北に通る鎌倉街道沿いには城館跡や古い社寺そして古墳群もあり、中世以前の史跡が多く見られます。特にそのルート上には鴻巣市の源経基の館跡や安達藤九郎盛長の館跡伝承地などがあり、実証性は今ひとつ乏しいものがありますがこれらが平安時代から鎌倉時代初期の著名な人物の史跡であることからも注目したいところです。

おわりによせて
当初にホームページ作者は大宮台地を通る鎌倉街道沿いには板碑が沢山みられることに感心して、この地域のことをいろいろ調べて行くと、古代から中世に至る史跡や遺跡が豊富なことに驚かされました。そのことは南北に広がる大宮台地には古代から人々の生活の営みが盛んで、そこを通る古代からの幹線道路があったのではないかと考えるようになりました。鎌倉街道は古代道を踏襲して発展、発達している例が多いことから、大宮台地の鎌倉街道もかなり重要な路線であった可能性が考えられるのです。そこで浮上してきた妄想が、鎌倉から大宮台地へ直結するルートの存在の有無で、かりにそのようなルートが存在したならば、源頼朝が『吾妻鏡』にいう文治5年(1189)の奥州藤原氏討伐に向かったルートである「中路」とはこの道の可能性もあるのではないかと思うようになりました。さらに妄想は広がり、このときの「中路」と建長8年(1256)に夜討強盗に備えるため、幕府が沿道の地頭に警固を命じたいわゆる「奥大道」とは、武蔵国内を通る部分の道筋としては別なものではないかという疑念でした。しかし、これらはあくまでも趣味として歴史古道好きの素人が気まぐれに思い描いた妄想と空想の一端であることを最後に付け加えておきます。鎌倉街道探索は素人でもいろいろな説やルートを想像できることが楽しいものなのです。