鎌倉街道羽根倉道とは
鎌倉街道羽根倉道とはどのような道であったのでしょうか。埼玉県教育委員会の『歴史の道調査報告書 鎌倉街道上道』に説明されている羽根倉道は次のように書かれています。
「所沢市において鎌倉街道上道から別れ、県南部を北東に進み、荒川(旧入間川)を渡り大宮台地に沿い北上する街道は、奥州脇道とも羽根倉道とも称されている。上道と中道の中間に位置する本道は、大宮台地上の南北に広がる地域を繋ぐ道であるとともに上野に至る要路であったと推測される。また古代においては、大宮の氷川神社と府中の武蔵国府とを結ぶ道であったと思われる。」
『歴史の道調査報告書』には、さらに次のように続いて書かれています。
「まず、所沢の南、東村山市境で上道から別れた道は柳瀬川沿いに新座市大和田を経て志木市に至る。通称引又道と言う。また所沢市宮本町から上道と別れ富士見市中通を経て志木に至る道を水子道と称した。この両道は志木市内で合流し、現在の羽根倉橋付近で荒川(旧入間川)を渡河すると伝承される。荒川を渡河した道は浦和市大久保領家を抜け、与野市に至り、近世の中山道脇往還に沿い北上し大宮にいたる。中略・・・ 大宮台地上を東北に進み、上尾市を経て、菖蒲町中手城等を通過して加須市の北方大越で、川口方面から北上してきた奥州道と合流する。この道以外に、大宮に岩槻道と称される道が伝承されており、両道とも上道と奥州道とを結ぶ要路としての可能性が強いが、河川による分断が著しく道筋の明確さは求められない。」
上の写真は落ち葉に覆われた鎌倉街道を南側から北側に向かって撮影したものです。緑地の中の道は静寂を保ち、テレビや映画の時代劇ロケ地のような雰囲気が漂います。
地表面にも沢山みられる道路面と思われる硬い路面
上の写真は10月に撮影したもので北側から南側を撮影しています。落ち葉がないので土の道の状態がよくわかります。この緑地の鎌倉街道で特徴的なものは、現地表面に踏み跡と思われる硬い路面が沢山確認できることです。一般には古道の硬化面は歩かれていた路面中央部に見られることが多いのですが、この緑地内の道では路面中央部は削られていて一部砂利が敷かれていたりします。そして道の両サイドである緩やかな盛り上がり部に硬化面のような硬い路面が多数確認できるのです。この両サイドの硬い路面の存在は、過去にこの道が利用されていたときのものと思われ、現在の道幅よりも広い部分で人が歩いていたことが想像されます。現道の路面幅で約3.5〜4メートルですから、硬い路面が見られるところが道として利用されていた時期の路面幅は6メートル位あったのでしょうか。道幅が6メートル位あるということは鎌倉街道上道の本道と同じ位の道幅であったことが推測されるのです。
上の写真が道の側面盛り上がり部に見られる硬い路面を撮影したものです。鎌倉古道の掘割状遺構などを発掘すると、地中の数十センチから数メートルの深さで硬化層が出てくることがあるそうです。それは道として踏み固められた路面があって、ある時期から何らかの理由で道としての機能がなくなり、長い年月の間に自然堆積層に埋もれていた状態なのでしょう。ここの道には現在の地表面に硬い路面が見られることから、近年まで道として機能していたことがうかがえるのです。ここの道を発掘してさらに地中からも別な時期の硬化面が確認されれば、この道はかなり古い時代から利用され続けていたことにもなるのです。明治10年代の地誌図を見てみると、足立郡奈良瀬戸村の南北方向の道では中山道の次ぎに太い道として鴨川のすぐ東側の道が描かれています。その道がおそらく現在のこの緑地の中の道だったのではないでしょうか。仮にこの道が中世の時点で6メートルの道幅があり、台地上の直線的なルートの取り方などを併せて考慮してみると、当時の主要幹線路に引き適する規模の道の可能性がありそうなのです。
川口市から加須市の奥州道より大宮台地の鎌倉街道の方が古いかも
鎌倉街道羽根倉道は上道と中道の連絡路というのがこれまでの通説となっていました。ホームページ作者はこの緑地の鎌倉街道と伝わる道を見ていると、ここの道が鎌倉街道上道の所沢付近から分岐して荒川(旧入間川)を渡り、旧与野市で大宮台地上のこの道に繋がっていたという説が何故か不自然に思われてくるのでした。実際にここに道跡が残っていて、大宮台地上の地形に対する古道のルートの取り方、大宮台地上の鎌倉街道沿いに見られる板碑の数の多さ、古道沿い及びその近辺の城館跡の分布等、これらの事柄からこの大宮台地の古道は、上道と中道との連絡路という性格ではなく、歴史的及び地理的に独立した重要な路線であったのではないかと思うようになったのです。それに対して鎌倉街道中道の川口市方面から鳩ヶ谷市、旧岩槻市、杉戸町、幸手市、加須市のルート上には古代から中世の史跡や遺跡は大宮台地ほど多くはなく、板碑の数も川口市から加須市間のルート上にはあまり多く見られません。また大宮台地上とその近辺には鎌倉時代初期頃のよく知られた武将の館跡伝承(実際の遺構は残っていないが)が幾つか見られるのに対して、中道のルート上には城館跡は大宮台地ほど多くはないようです。ただ中道のルート上には道路遺構として、鳩ヶ谷市の「辻字宮地第2遺跡」で8〜9世紀代の幅12メートルの直線道(2時期の遺構は側溝を持つ幅3メートルのクランクする道に変遷している)が見つかっていますが、この道路遺構の軸線(方向)は西南西から東北東の方向で鎌倉街道中道の進む方向とは異なり、古代の東海道との説もあるようです。このような事柄から川口市から加須市に至る、いわゆる鎌倉街道中道のルートは大宮台地のルートよりも新しい可能性も考えられ、しかも中世後期にはその使用頻度は少なくなっていたのではないかとホームページ作者は想像しています。
里山の自然としても貴重な三貫清水緑地
上の写真は12月の緑地内の樹木が黄色くなっているものを撮影しました。黄色く染まった木の葉が雑木林の木漏れ日を受けて輝いているのはとても綺麗でした。コナラ、クヌギの木が多いようです。ヤマザクラ、エゴノキ、その他180種類の樹木が生えているそうです。こんな説明版がありました。
「三貫清水の林はむかし里山でした。 里山は、薪をとったり、落ち葉をかいたりして、農家の暮らしと深いつながりがありました。里山のコナラ林はユリやリンドウの花、虫や鳥など自然が豊かでした。今では、小鳥が落とした種から生えたカシなどの常緑樹が茂って暗く荒れています。そこでもう少し明るくして、人にとっても動植物にとってもすばらしい場所にしようと手入れしています。皆様のお力をお貸しいただければ幸いです。」
「三貫清水の会」というのがあって、自然保護と清掃活動を定期的におこなっているようです。不法投棄の多い雑木林にもかかわらず、ここの緑地にはゴミ捨てがほとんどみられません。会の活動をされている方々には頭が下がります。
羽根倉道はなぜ上道から別れて中道へ接続しているのか
鎌倉街道羽根倉道は上道の所沢市付近から別れて荒川(旧入間川)を渡り大宮台地の旧与野市の本町通りに繋いでいます。そこで所沢市(或いは東村山市)から別れている理由は何故なのか考えてみました。所沢市と東村山市は都県境です。それは多摩郡と入間郡の境でもあります。この境には中世の時期に久米川宿がありました。また古代武蔵悲田所もこの境付近にあったといわれています。そして将軍塚がある八国山の存在、さらに所沢市側には「東の上遺跡」という古代の官衙に関連したと思われる遺跡があります。これらの史跡や遺跡が存在した道の要衝から武蔵一宮(大宮氷川神社)への連絡路ということなのでしょうか。いっそのこと武蔵府中から大宮台地へ直接繋ぐ道があれば利便性がありそうにも思われます。そこで注目したいのが小金井街道ですがこの道の前身は志木市の引又道へ接続していた可能性が考えられます。
武蔵府中から大宮台地へ直接繋げてしまおうという発想からさらに飛躍して、鎌倉から短距離で直接に大宮台地へ繋いでしまったらどうなのでしょうか。とんでもない発想でそんな道があるものかと鎌倉街道の研究者に叱られてしまうかも知れません。あるわけないだろうと思いつつ、図書館やインターネットでちょっとだけ調べてみましたがそれが実はあるかも知れないのです。大宮台地と鎌倉を最短で繋げる道は、幾つかある鎌倉街道の支道や間道といわれてきている道を繋ぎ併せることで見事に一本の道が見えてきたのです。
三貫清水の由来は太田道灌の伝説にあり
緑地の名前にもなっている「三貫清水」とは、室町時代、扇谷上杉家家宰であった太田道灌がこの辺りに狩りに来ていて、ここで休憩した際、土地の人がここの清水の水を汲んで茶をたてて出したところ、「とてもうまい」と言って、三貫文の褒美を与えられたという伝説からついたものといわれています。太田道灌は川越城と岩槻城を築いていて、ここから少し北へ行ったところには、川越城と岩槻城を結ぶ東西の道と、南北の鎌倉街道が交差するところがあり、太田道灌はこの辺りの道をよく利用していたものと想像されます。
上の写真は緑地内の鎌倉街道の西側にある鴨川岸へと下る斜面に造られた水路です。三貫清水の池の水位と水質の維持から、池の湧き水をポンプで循環させているそうです。時より水が汲みあがり流れてゆく音が聞こえます。実際の三貫清水は鎌倉街道の西側の台地を下りた低地の縁にある2箇所の池がそうだといいます。南側の池には説明版と碑も建てられています。
鎌倉街道羽根倉道の道筋の取り方は「いざ鎌倉」の道とは若干の趣の違いが感じられます。現在の所沢市付近で上道から東へ分岐(何故、所沢付近なのか)すること、大宮台地の南では旧与野市本町通りから急カーブで西に曲がり羽根倉橋を目指していること、さいたま市から上尾市に入ったところでも急に東に折れることなど、これら道の進行性は鎌倉街道の特徴とは違いがみられます。大宮台地の部分だけ南北に鎌倉街道は走っているのです。それも何故なのか?
観応の擾乱の羽根倉合戦
羽根倉道を紹介している資料として知られているのは高麗経澄軍忠状(正平7年)にある、観応2/正平6年(1351)高麗彦四郎経澄と難波田九郎三郎とが「羽禰蔵(羽根倉)」で合戦しているというものです。足利尊氏方の経澄は鬼窪(現白岡町)から武蔵府中を経て伊豆国府(現三島市)へ向かう途中でした。現在の羽根倉橋付近で足利直義方の難波田九郎三郎が待ち受け合戦となりますが経澄軍は難波田軍を打ち破り勝利します。この戦は観応の擾乱の局地戦として知られています。
「観応の擾乱」とは、南北朝時代に足利尊氏が征夷大将軍となった頃は弟の直義とは協力して政治を行っていましたが、尊氏の執事であった高師直は徐々に勢力を拡大して直義と対立するようになります。観応2/正平6年(1351)に直義は師直を倒しますが直義も尊氏と対立するようになり、翌年尊氏は戦いで直義を鎌倉に追い込み、そこで毒殺してしまいます。(太平記の記述) 尊氏と直義の兄弟の争いは各地の武士達をも巻き込み分裂させて行きます。これを観応の擾乱と呼んでいます。室町幕府の不安定な要因はこの乱の後、長く尾を引きずっているのです。
三貫清水緑地内の鎌倉街道も上の写真のところから少し下って終わっていました。











