先ほどの「能見堂緑地」の標柱が立っているところの少し先で切通しは終わっていました。尾根へ上がった道を暫く進むと二股の分岐に出ました。上の写真が分岐のところを撮影したもので、右側の道が古道だと思われます。右側の道は上り下りも少なく能見堂跡前へ出られます。一方の左側の階段の道は上りながら何度か屈曲して能見堂跡前で右側の道に再度合流していました。
能見堂について
能見堂とは、江戸時代の寛文年間にこの地を領地とした久世大和守広之(くぜやまとのかみひろゆき)という人が、江戸増上寺の廃院であった地蔵院を、小さな辻堂しかなかったこの地に移し再建した「擲筆山(てきひつざん)地蔵院」という寺院のことです。
現地説明版によると「能見堂」の名が出てくる一番古い資料は、室町時代の文明18年(1486)『梅花無盡蔵(ばいかむじんぞう)』で、これに「濃見堂」の名が出てくるので、この時代には能見堂があった事がわかります。とあります。
上の写真は能見堂跡の平場前を通る古道です。
能見堂の始まりは定かではなく、江戸時代に書かれた『能見堂縁記』では平安時代の藤原道長が結んだ草庵が始まりとしています。能見堂の名前の由来として平安時代初期の絵師である巨勢金岡(こせのかなおか)がここから金沢の景勝を描こうとしたが、内海の潮の満ち干の変化に筆が進まず絵筆を松(筆捨松)の根元に投げ捨て、「のけぞった」から(のけ堂)となったとする伝説もあるようです。
能見堂の名前の由来は他にもあり、よく見える(能く見える)からとか、地蔵を本尊とするから六道能化(ろくどうのうけ)の意により能化堂が能見堂に変わったとするものなどいろいろな説があるようです。このように由来についてはユーモアな話が多いようで微笑まれます。
上の写真は能見堂跡前の古道とそこに建つ説明版です。
金沢八景とは
昔の金沢は内海が能見堂の下まで入り込み、能見堂からの眺めは素晴らしく、東に房総の山々が見渡せ、湾に浮かぶ島々、南方に三浦半島の山々、西方には富士山まで見られる絶景の地でした。
江戸時代の元禄の頃に心越禅師(しんえつぜんじ)という中国出身の僧がこの地を訪れ、ここからの景色が中国の「瀟相八景(しょうしょうはっけい)」に似ていて「小泉夜雨・瀬戸秋月・州崎春嵐・内川暮雪・平潟落雁・野島夕照・乙艫帰帆・称名晩鐘」と題した金沢八景の漢詩を詠んだことが金沢八景の起こりといわれます。
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現在の能見堂跡は、建物が建っていたと思われる平場があり、そこにあったという井戸跡と数基の石碑が見られるだけです。
上の写真の右側は江戸の医者鈴木宗珉の墓「山室宗珉居士墓碑」でかっては筆捨松の根元にあったといいます。左の写真には三つの碑があり、右から「一方句碑」、「江耆楼美山碑」、「武蔵国金澤碑」です。
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上の写真は現在の能見堂跡を撮影したものです。かって建物があったであろう平場はその広さが往時の繁栄を忍ばせてくれています。天保五年(1834)に出版された『江戸名所図会』に繁栄当時の能見堂の姿が描かれています。茅葺と思われる建物が二棟見られ、左に大きな木がありこれが巨勢金岡の伝説の筆捨松ではないでしょうか。木の根元には石碑とも墓石と思われるものが見られます。手前には道が描かれ道行く人や駕籠を担ぐ人が見られます。筆捨松の手前には望遠鏡で景色を眺める人も描かれています。
上の左の写真には石碑が一つありますがこの石碑については何故か説明版に何も触れられていません。「一堂碑」とか「丸井一堂君之碑」とかいうようですが資料が無くよくわからない碑です。碑の裏面には沢山の人名と思われる文字が刻まれています。
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上の写真の右側は能見堂跡の傍を通る道を撮影しています。左の写真は能見堂跡前に建つ「金澤八景根元地」の碑です。台石正面には「能見堂」とあり、右側面に「享和三年癸亥歳二月巳巳 十三世真方」などと刻まれています。
明治二年(1869)に能見堂は火事にあいその後は住職もいなくなり、かっては行き交う人々で賑わった金沢道(保土ヶ谷道)も鉄道や他の道路の整備等で廃れて行き、ここを訪れる人も少なくなっていったということです。












