金沢道の全身は鎌倉街道下道
ブログの始めの説明でも少し触れましたが、この金沢道はその前身は鎌倉街道下道と伝えられています。しかしこの古道が鎌倉街道であったことはあまり知られていないようです。
下の写真は能見堂緑地を上る金沢道沿いの石仏です、
『鎌倉街道探索の旅』の著者である芳賀善次郎氏はその「下道編」にて能見堂跡を通る鎌倉街道を説明されています。また北倉庄一氏も『中世を歩くー東京とその近郊に古道「鎌倉街道」を探る』の「下の道」編で能見堂跡の古道を語られています。
北倉庄一氏は自身のホームページである「街道を尋ねて」にここ能見堂緑地にある切通しの道の写真を掲載されいます。
上の写真は能見堂緑地内を通る切通しで古道の雰囲気が感じられる道です。下の写真は同じ場所から振り向いて撮影したものです。しかし、この直ぐ先には再び金網で覆われた切通し壁がありました。
この能見堂跡の尾根を通る古道が鎌倉街道の可能性を指摘する資料は『新編武蔵風土記稿』などに見られます。久良岐郡谷津村の項に「村内に一条の往還あり、鎌倉及浦賀への街道にて、これ鎌倉の古街道なり、」とあります。能見堂からの坂を東に下りた道はその先、谷津・寺前・町屋を経て平潟に望む洲崎に至る道筋で『新編武蔵風土記稿』各村の項に鎌倉古街道の名を留めています。
鎌倉を出た鎌倉街道下道のルートは、研究者により幾筋かに分かれるようです。鎌倉街道を「上道」、「中道」、「下道」の三つの幹線ルートとして定説化されはじめたのはいつ頃なのか。ブログの作者の知るところでは、阿部正道氏の『「鎌倉」の古道』あたりからではなかと考えます。
下の写真は上の二つの写真と同じ付近を10年前に撮影したものです。この写真では切通し壁が金網で覆われていないので鎌倉の切通しのような雰囲気が感じられます。
阿部正道氏の鎌倉街道下ノ道(保土ケ谷方面)
阿部正道氏の『「鎌倉」の古道』では、下道は道興准后が辿った道筋としているようです。
巨福呂坂で鎌倉を出て、「はなれ山」大船ー「すりこばち坂」横浜市栄区小菅ヶ谷と港南区上永谷町の境界付近ー「もちゐ坂」横浜市港南区最戸と南区別所の境の坂ー「岩井原」横浜市保土ケ谷区岩井町ー「かたびらの宿」横浜市保土ケ谷区帷子町というように保土ケ谷の帷子で近世東海道と合流しているルートです。またこのルートは近世の弘明寺道とほぼ同じ道筋であると考えられます。
下の写真は「能見堂緑地」の標柱が立っているところを撮影したものです。左側が今年に訪れたときのもので、右側は10年前に訪れたときのものです。両方の写真とも同じところを同じ方向(下り方面)で撮影しています。
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下の写真は上の写真を逆方向(上り方面)に見て撮影しています。同じように左側が今年に訪れたときのもので、右側は10年前に訪れたときのものです。
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芳賀善次郎氏の鎌倉街道下道の概観
一方で下道について芳賀善次郎氏は自身の『鎌倉街道探索の旅 下道編』で次のように書かれています。
「鎌倉から保土ケ谷までは、四本の道がある。これらは、大別すると二系統で、一つは笹下川・大岡川東岸流域を通り、他は日野川・大岡川の西岸を通る。前者は下道で、後者は中道から下道への連絡道である。 前者の下道には二本あり、一本は本道で朝比奈切通を経て、金沢から丘陵を越えて笹下川・大岡川東岸を北進する金沢道である。この道は、金沢から丘陵上を開いて笹下川流域の古道に繋いだ道のようである。もう一本は、鎌倉二階堂大路から、天園経由で戸塚区と金沢区の区境高地を通り、峰町から洋光台を経て、田中町と笹下町で金沢道に合流する尾根道で、峰通りといわれる間道である。 後者の連絡道にもに二本ある。一本は戸塚区上永谷町で中道から分かれ、野庭町を経て日野川・大岡川の西岸を通り、岩井町で金沢道に合流する「七里堀」といわれる道である。もう一本は、やはり上永谷町の日限山で中道から分かれて東北に向かい、餅井坂で七里堀に合流する弘明寺道で、道興准后の通った道である。これらの道も、上永谷から丘陵上を開いて、大岡川流域の古道へ繋いだ道のようである。」
さて、ここ能見堂緑地の切通しにしても鎌倉七口の切通しにしても、何百年もの時間を経て開削当時の姿がそのまま残っていると考えるのはかなり無理があると考えます。人工物である道そのものが長い年月の使用に耐えるためにはメンテナンスが必要です。切通しの壁は時間が経てば必ず崩れるものです。重力の法則から考えれば必然的なことなのです。
鎌倉周辺の丘陵の岩は脆いものです。ですから繰り返しますが、中世時点の切通し道がそのままの姿で現在まで残されていると考えるのは難しいと思います。中世の道筋が現在と同じところを通過していたとしても切通しの姿は中世時点とは変わってしまっていると考えた方が自然です。
今に見る能見堂緑地内の切通し道は中世の鎌倉道と言うよりは、近世の金沢道として利用されていた頃の切通し道と考えた方が妥当のように思われます。
明治11年(1878)4月に、英照皇太后金沢行啓御野立場になった。行啓前に、保土ケ谷金沢往還の道を修理し、特に人力車が通れるように細い山道を広げたとあります。現在の能見堂緑地内の切通古道は、或いはこの時に拡張工事を受け、その後の姿なのかも知れません。











