「歴史は勝者がつくる」、よく言われる言葉です。今年は先の戦争から80年ということで8月15日が近づくにつれメディアやネットで先の戦争や戦後のあゆみについての様々な情報が語られていました。
歴史を知ることは生きて行く上で大切なことだとブログ作者は考えて来ました。また人生を豊かにできるかは歴史に興味を持てたか、持てなかったで判れるのではと考えたりしていました。
まずは自分が興味ある時代のことを本で調べていましたが、近年ではネットで調べられるほど沢山の歴史情報を検索することが出来るようになりました。ただネット情報はリテラシーを高めて信憑性を判断する必要性があります。
陰謀論という言葉がありますが、歴史の闇の部分を陰謀論と蓋をする人がいるようですが、或いはその陰謀論の中に歴史の真実が隠されているかも知れないなどと言うと、「お前は陰謀論者だ」と返されてしまいそうです(笑) しかし都合の悪いことを隠すには陰謀論ほど都合のよい言葉はありません。
「酒のツマミになる都市伝説」ブログ作者もこういう話はおおいに好きです。
ブログ作者は近・現代史は興味がありますが正直あまり詳しくはありません。自分が生まれてくる少し前までこの国は戦争をしていたという事が不思議でしたが、それでもブログ作者の幼い頃には上野公園の西郷隆盛像から少し降りた今の京成駅入口付近に白い服を着た足や手が無い人がいるのを見たことがありました。その光景が物凄く異様であったことを記憶しています。
荻外荘は、東京都杉並区荻窪の地で芸術家や文化人等が暮らした建物や敷地を整備した公園の荻窪三庭園(荻外荘公園・大田黒公園・角川庭園)の一つです。
令和6年12月にテレビのニュースで東京都杉並区荻窪の荻外荘(てきがいそう)が一般公開されるようになったと言うのを聞いて、荻外荘とは何だろうとブログ作者は思いました。さっそく調べてみると伊東忠太という建築家が建てた近代住宅だと知りました。そこで古い歴史建築に興味がありましたので行ってみようかなとなりました。
更に荻外荘は戦前、総理大臣を3度務めた近衛文麿(このえふみまろ)の邸宅で昭和の歴史の舞台ともなったところと分かり、当時の歴史に興味があるブログ作者は、これはもう行ってみなければいけない、そのような声がどこからか聞こえてきました。
ブログ作者は近衛文麿の名前は知っていましたがこれまでに本を読んだり調べたりしたことが殆ど無い人物でした。ただ以前から先の戦争の経緯に大いに関わった人物であるということは知っていたので、荻外荘を訪ねることはこの人物を知る(学ぶ)良い機会だと思いました。
国指定史跡 荻外荘【近衛文麿旧宅】
荻外荘は、昭和戦前期に総理大臣を3度務めた政治家、近衛文麿の邸宅です。当初は、昭和2(1927)年に、大正天皇の侍医頭を務めた医師の入澤達吉が、義弟で建築家の伊東忠太に設計を依頼して建てた邸宅でした。昭和12(1937)に近衛文麿が入澤から邸宅を譲り受け、その後、西園寺公望が「荻外荘」と命名しました。近衛は、ここで政治会談や第二次・第三次近衛内閣の組閣を行うなど、荻外荘は、近衛の主要な政治の場となりました。特に、昭和15(1940)年の「荻窪会談」は、第二次近衛内閣の基本方針が確認された会談として有名です。戦後、昭和20(1945)年12月16日に近衛は邸宅の書斎で自決しました。
平成28(2016)年3月1日、昭和の政治の転換点となる重要な会議が行われた場所として、国の史跡に指定されました。
(荻外荘内の説明版をそのまま記載)
荻外荘が一般公開されたのは令和6年12月9日でブログ作者は12日に行ってきました。北西側から屋敷内に入ると木々は真っ赤な紅葉真っ盛りで出迎えてくれています。当初、入澤達吉(いりさわ たつきち)はこの邸宅を「楓荻荘(ふうてきそう)」と呼んでいたそうですがこの時はその名にふさわしい景観だったのです。
そして近衛文麿は12月16日に自決したと伝えていますからブログ作者が訪れたのはまさにその時期なんですね。その時もこのような紅葉だったのかと思いが巡ります。
歴史上の人物像、近衛文麿の概略
近衛文麿を知るために幾つかの本を読みました。今はネットで調べることも出来ますが、歴史の真相に迫るにはやはり本が一番です。
近衛文麿は近衛家の出身の貴族です。近衛家は皇室に最も近い貴族で藤原氏の家系です。
奈良時代、藤原不比等の四兄弟の房前の末裔で藤原北家(あの藤原道長も藤原北家でした)が五つにわかれたのが五摂家でその一つが近衛家です。五摂家は代々摂政と関白を独占的に輩出する家柄でした。近衛家は五摂家の中でも筆頭として特別な存在だったようです。
1904年(明治37年)に父の近衛篤麿が死去して文麿は12歳にして襲爵し近衛家の当主となります。その頃に実の母親が近衛文麿を出産してまもなく亡くなっていたことを知ったと伝えます。近衛文麿は明治時代の華族制度では五等爵の第一位の公爵で、満25歳に達すれば自動的に貴族院議員になれるという身分だったようです。
近衛文麿は東京帝国大学哲学科に入学しますがまもなく京都帝国大学に入り直します。そこで河上肇や西田幾多郎などの影響を受けたと言われています。
近衛文麿は若い頃に「英米本位の平和主義を排す」という考えを持っていたようです。西欧人の植民地支配などの人種座別が嫌いだったようです。
また自らの特権階級の出生についても自問自答して悩んでいたようです。
近衛文麿は、貴族院議長を務め、人気の高い「カリスマ」的政治家でした。近衛文麿は戦前三度にわたり総理大臣を務めました。
近衛文麿は、日中戦争下の「国民精神総動員運動」の推進や「国家総動員法」の制定、大政翼賛会設立、日独伊三国同盟の締結など、戦時体制強化と「東亜新秩序」の建設を目指しました。また、太平洋戦争終結を唱え「近衛上奏文」を提出しました。GHQのA級戦犯容疑者指定を受け、出頭当日服毒自殺しました。
近衛文麿を知ることで先の戦争に関わる近代史及び戦後の歴史観が見えて来ると言われていますが、それはどういうことなのか?
『歴史総合』で語られる近衛文麿
歴史総合(れきしそうごう)は、日本の高等学校の学校教育における教科「地理歴史」の科目の一つ。主に近現代の日本史及び世界史の両方を取り扱う。2022年の学習指導要領施行により新たに設置された。(Wikipediaより)
ここでは『歴史総合近代から現代へ(山川出版)』に近衛文麿のことが記述されている3か所を参考資料として引用させて頂きます。
〇 日中戦争と国内外の動きー日中戦争の勃発
引用p143
国内では国民の戦争協力を促進するため、第1次近衛文麿内閣が9月に国民精神総動員運動を開始して日中戦争を「聖戦」と意義つけ、新設した内閣情報部による報道統制や内務省の検閲によって、反戦論は事実上禁じられた。
〇 日中戦争と国内外の動きー新体制運動と三国同盟
引用ーp144からp145
日本では、ドイツのような強力な独裁体制をして中国や国際社会に強い態度を示し、日中戦争を有利に終結させようという動きが生じた。そして1940(昭和15)年6月に近衛文麿を中心とした新体制運動が始まると、ほぼ全政党が解党してこの運動に参加した。近衛内閣は、アメリカ・イギリスからの中国援助ルート(援蔣ルート)を遮断するたため9月にフランス領インドシナ連邦北部への進駐(北部仏印進駐)をおこなうとともに、日独伊三国同盟を締結し、ドイツと結ぶことでアメリカ・イギリスを牽制しようとした。これに対し、アメリカは日本へ経済制裁を開始した。
〇 第二次世界大戦と太平洋戦争ー日米交渉と太平洋戦争
引用ーp147からp148
1940(昭和15)年12月、アメリカ大統領に3選されたローズヴェルトは、中国を支援し、日本に対しては経済制裁をおこなうなど、圧力を強める姿勢を示した。そこで日本は、アメリカを牽制するため1941(昭和16)年4月に日ソ中立条約を結んだうえで、経済制裁解除のための日米交渉を開始した。アメリカは、日本軍が中国本土から即時全面撤退すれば経済制裁を解除し、日中の講和を仲介するとした。これに対し日本は、全面撤退には応じられないとし、東南アジアの石油資源を確保するため、7月にフランス領インドシナ連邦南部への進駐(南部仏印進駐)をおこなった。しかし、これはアメリカによる在米日本資産の凍結と対日石油全面禁輸(事実上の経済断交)をまねく結果となった。
日本の国力ではアメリカとの戦争は難しいとみた近衛文麿首相は、対米強硬論をとなえる松岡洋右外務大臣を更迭するため、7月に内閣総辞職をして第3次近衛内閣を成立させ、日米交渉を継続した。しかし、陸軍は中国からの全面撤退は陸軍の威信に関わるとして拒否し、アメリカ・イギリスの植民地が多い東南アジアを占領し、資源を確保すれば戦争継続は可能と主張した。近衛首相は陸軍を説得することができず、10月に退陣した。
素人なりにこの人物を評価すると、日中戦争から大東亜戦争(太平洋戦争)に至る過程で近衛文麿という人物が分岐点にて道しるべを立てていたことが想像できます。
さて、近衛文麿とはどういう人物だったのか、三つの質問でAIに聞いてみました。
1.「近衛文麿は平和主義者だったのでしょうか?」
《回答》
近衛文麿は、必ずしも平和主義者とは言えません。彼は日中戦争開戦時の首相であり、戦争を拡大させた責任の一端を担っています。一方で、戦争終結に向けての動きも見られ、その評価は複雑です。
2.「近衛文麿は優柔不断な人物だったのでしょうか?」
《回答》
近衛文麿が優柔不断であったかどうかについては、評価が分かれますが、特に第二次世界大戦中の日本の進路を決定する上で、決断力に欠けていた、あるいは他からの影響を受けやすかったという指摘はあります。特に日中戦争の長期化や太平洋戦争への突入を巡っては、事態打開のための明確な方針を打ち出せなかったという見方も存在します。
優柔不断と見なされる理由
〇軍部との関係:
昭和初期に台頭した軍部に対して、近衛は強力なリーダーシップを発揮できず、彼らの要求に押される形で軍拡や戦争継続に傾いたという評価があります。
〇対米開戦への道:
日米開戦を避けるための外交交渉が膠着した際、近衛内閣は「日米交渉が妥結しない場合、対米開戦」という方針を打ち出しましたが、これはむしろ対米戦を既成事実化する結果となり、開戦回避の意思が弱かった、あるいは決断できなかったとも言われています。
〇側近や世論の影響:
近衛は世論や特定の側近の影響を受けやすく、その場の状況によって態度を変える傾向があったとも指摘されています。
〇近衛の置かれた状況
一方で、近衛が置かれていた状況は非常に困難であり、彼自身の優柔不断さだけで語るべきではないという意見もあります。
〇超国家的勢力(軍部)の台頭:
当時の日本は、内閣の統制が効かないほどの巨大な権力を持った軍部が跋扈する状況でした。
〇国際情勢の緊迫化:
全体主義国と民主主義国が対立する国際情勢は複雑で、日本がどのような道を歩むべきか、明確な答えを見出すのは困難でした。
〇個人的な信念と現実の乖離:
近衛自身は平和を望んでいましたが、国内の政治状況や国際情勢の中で、自身の理想を貫くことができなかったとも言えます。
〇結論として
近衛文麿が「優柔不断だった」という評価は、彼の言動や政策決定の過程から一部で見られますが、それは彼自身の責任だけでなく、当時の複雑な国内政治状況や国際情勢、そして軍部という巨大な勢力の影響も大きいと考えられます。彼の生涯を通じて、決断の機会においてしばしば躊躇や柔軟な対応を見せたことは事実であり、それが「優柔不断」と形容される一因となったと言えるでしょう。
3.「教科書やメディアで近衛文麿と共産主義の関係があまり語られないのは何故?」
《回答》
教科書やメディアで近衛文麿と共産主義の関係があまり語られないのは、主に以下のような理由が考えられます。
〇近衛の主な歴史的役割は戦線拡大と終戦工作にあるため:
近衛文麿の歴史的な評価は、日中戦争の拡大や大政翼賛会の設立など、戦前の日本の針路を決定づけた点に集中しています。また、終戦直前の「近衛上奏文」に代表されるように、彼の最晩年の行動は終戦工作が中心でした。共産主義との関わりは、これらの主要な歴史的出来事の副次的な要素として扱われがちです。
〇「共産主義陰謀説」の信憑性の低さ:
近衛は晩年、終戦を促すために天皇に対し「陸軍の一部が共産主義化しており、このままでは共産主義革命が起こる」という内容の上奏文を提出しました。これは当時の彼なりの危機感に基づくものでしたが、現代の歴史学においては、この「陸軍共産化」や「共産主義革命」が差し迫った現実的な脅威であったという見方は一般的ではありません。むしろ、終戦への説得材料として「共産主義の脅威」を利用した側面が強いと考えられています。そのため、歴史の主要な動因としては重視されません。
〇複雑で間接的な関係性:
近衛自身が共産主義者であったわけではなく、むしろ極端な国家主義体制を推進しました。彼が関わったのは、共産主義勢力への警戒心や、一部の側近(例えば尾崎秀実など)が実はコミンテルンのスパイであったという複雑な間接的な関係です。これらの事実は歴史研究の分野では知られていますが、簡潔さが求められる教科書や一般向けメディアでは、主要なストーリーラインから外れるため、深く掘り下げられることは稀です。
〇教育・報道における焦点:
教科書やメディアは、限られたスペースや時間の中で、生徒や視聴者に日本の戦争責任、軍部の台頭、国民生活への影響といった、より重要で明確な歴史的事実を伝えることを優先します。近衛と共産主義の複雑な関係は、焦点となりにくいのです。
これらの理由により、近衛文麿と共産主義の関係は、専門的な歴史研究の領域では議論されるものの、一般的な歴史教育やメディア報道では大きく取り上げられることは少ないのが現状です。
AI は不正確な情報を表示することがあるため、生成された回答を再確認するようにしてください。
3番目の質問は近衛文麿が共産主義者だったのかという質問ではなく、教科書やテレビなどのメディアで、近衛文麿の周りに当時の共産主義者が沢山いたことがあまり語られないのは何故という質問でありました。
歴史研究者が書く近衛文麿像は日本を戦争へ導いた最大の責任者。教科書等及びテレビの歴史番組などで語られる近衛文麿像は平和主義者。そのような違いを感じてしまうのはブログ作者だけでしょうか。
客間の前と食堂南の窓脇にタブレットが置かれ、AR(拡張現実)で再現した「荻窪会談」や、VR(仮想現実)で製作した昭和12年頃の荻外荘庭園風景を視覚的に体感することができます。ブログ作者はタブレットの使い方がわからずにいると案内のお姉さんが教えてくれました。
上の写真は玄関から入って直ぐの応接室。天井が高く龍の天井画が描かれています。応接室は中国風をあしらったデザインと言うことです。入澤達吉は龍の天井画の製作依頼をしていたそうです。
床には敷瓦が貼られこちらも龍のレリーフがあるものも見られます。窓は中華風格子窓。復元された螺鈿(らでん=貝装飾)細工のテーブルと椅子に中国風の照明。
敷瓦は当時の物と再現されたものが混じります。伊東忠太のこだわりが詰まった部屋ということです。
玄関から廊下へ伸びる入口に扁額(へんがく)が掲げられています。西園寺公望が「荻外荘」と名付けて筆跡したものだといいます。玄関に置かれている太鼓は本来は玄関の外に置かれていて記者を呼び集めるために打ち鳴らされたものだといいます。
上の写真の部屋は近衛文麿が自殺した書斎です。青酸カリによる服毒自殺だったと言います。近現代史研究家の林千勝氏は「近衛文麿は自殺ではなかった!」という説を書いています(近衛文麿 野望と挫折)。大東亜戦争は昭和の藤原の乱!とも語っています。そういう説は他には誰も言っていませんが、読み物としては大変面白かったです。ロスチャイルド家などの影響とか陰謀論と語られる部分ですが深く掘り下げているところは感心しました。
林千勝氏は子供の頃に荻窪(荻外荘の近く)に住んでいたそうです。近衛文麿の屋敷の中は冒険場所で楠木の上に小屋をつくって遊んだと語らています。ブログ作者も林千勝氏とは同年代に近く子供の頃はそのような遊びをした記憶があり懐かしく思いました。
蔵には近衛文麿が着用した有爵者大礼服の複製品があります。写真右側の黒箱に島津家の家紋があります。近衛文麿自身は藤原氏で日本の歴史上では名門中の名門。母や継母は旧加賀藩前田家の人。妻は旧豊後佐伯藩毛利家の人。長女は島津家に嫁ぎ、次女は旧肥後熊本藩細川家に嫁いでいて、外孫は細川護熙で第79代内閣総理大臣です。
凄い家柄ですね。
近衛文麿について、ブログ作者の感想
近衛文麿の人物像と歴史的な役割など、ブログ作者はそれらを知りたくて本を買って読みネットでも調べてみましたが、この人物は理解するのが難しい人物だと気が付きました。研究者によって評価がかなり異なり素人には全く捉えどころがありません。二重人格者とも四重人格者とも呼ばれているようです。
ただ歴史上の人物としては調べると大変面白い人物です。戦国時代の武将のように天下を取ろうと目論んだ人物なのかはブログ作者には分かりませんが、当時人気があり名門の出で人脈も広く、だが政治には苦悩して自から命を絶ち果てるなど、また彼には沢山の女性がいた。彼を大河ドラマの主人公にしても面白いと思いますが何故か歴史ドラマや歴史報道にはあまり取り上げられることがないようです。そんなこともあって一般現代人には馴染みが薄い歴史上の人物なのだと思います。
近現代史を知るには近衛文麿は避けて通れないものがあるようです。(近衛文麿を知ることで当時=戦前・戦中・戦後の日本史・世界史がいろいろ見えて来る)現在の私達が生活するこの時代のあり様も戦前・戦後の影響を未だに受けているものがあることを近衛文麿を調べることで気が付くことがあるようです。
東京裁判史観とは、「先の戦争は一部の軍国主義者達が暴走して始められたと言う」そのような捉え方によるものだと思われます。それをAIで聞いてみると以下のような回答が帰ってきました。
《回答》
陸海軍の対立と統制の困難さ、明治憲法体制の構造的欠陥、そして政治的指導力の低下にあります。特に陸軍と海軍がそれぞれの権益を求めて対立し、政治家が彼らを統制できない状況下で、統帥権を盾に各組織が独自行動を強行したためです。
ブログ作者は軍国主義者が暴走したという行動の原理(イデオロギー)が何であったのかということを知ることが更に必要であるように感じました。近衛文麿の追及はまだまだ続くのだと思いますし、ブログ作者も更に勉強して行きたいと思います。
参考にさせて頂いた書籍
『われ巣鴨に出頭せず 近衛文麿と天皇』 工藤美代子 2006
『近衛文麿の戦争責任 大東亜戦争のたった一つの真実』 中川八洋 2010
『真実の日米開戦 隠蔽された近衛文麿の戦争責任』 倉山満 2022
『近衛文麿 野望と挫折』 林千勝 2023
『コミンテルンの謀略と日本の敗戦』 江崎道朗 2017
建築家・建築史家 伊東忠太
荻外荘の建物の設計は建築家・建築史家の伊東忠太(いとうちゅうた)が行っています。築地本願寺や平安神宮、靖国神社の神門などの建築の設計でも知られ昭和18(1943)年、建築学の分野で初めての文化勲章を授与された方です。日本建築史のことを語るときに伊東忠太の名無しには語ることはできない人物です。
法隆寺の中門・回廊や金堂の柱が中央部でやや膨らむ造りをエンタシスといいますが、その法隆寺の柱とギリシャ建築のエンタシスを関連付けて論じた(法隆寺建築論)のが伊東忠太でした。ブログ作者は学生の時にそのように教わりました。ただギリシャの建築が遠く離れた日本へ伝えられた具体的証明がなされていないと語られることもあるようですが、しかし伊東忠太は日本の建築学の開拓を行った人物であることには間違いありません。
伊東忠太の代表作の築地本願寺は近代建築の代表作とされ国指定重要文化財になっています。インドの仏教建築を想像させる建物で鉄筋コンクリート造りになっています。
荻外荘は和洋折衷の邸宅建築です。医学者である入澤達吉の好みに合わせて伊東忠太はこの邸宅を設計されたようです。近衛文麿はそういう邸宅の成り立ちや周囲の景観などがお気に入りしてここを譲り受けたのかも知れません。
伊東忠太の住宅建築は殆ど現存していないそうです。
復原工事
昭和20年に近衛文麿が自決した後は文麿の次男近衛通隆氏のご家族が住まわれていました。
昭和36年(1961)に建物の約半分である客間、応接室、玄関部分などが豊島区に移築されていましたが、杉並区は平成26年(2014)に残りの居住棟を遺族から買取り、移築されていた豊島区の天理教の施設も取得して復原整備工事が進められることになりました。
令和4年(2022)6月、移築部分の再移築工事を含む復原整備工事が開始され、約2年半をかけて昭和15年頃の姿に復原されました。創建時の部材を可能な限り使用し、古写真をもとに当時の内装や家具・調度類も再現されたようです。
近衛文麿の古い映像を見る
NHKアーカイブ新体制の確立へ第二次近衛内閣成立
上記の文字列を検索バーにコピーして検索をかけると、荻窪会談などの動画を見ることができます。
自殺の前日に近衞は次男の近衛通隆に遺書を口述筆記させ、「自分は政治上多くの過ちを犯してきたが、戦犯として裁かれなければならないことに耐えられない…僕の志は知る人ぞ知る」と書き残した。(Wikipediaより)
弟の近衛秀麿は「小さい時、自分は兄の話を聞くのがとても楽しみだった。博識な兄は外国のことや宇宙のことにとてもよく通じていて、世界の秘密を話してくれるように兄は自分にいろいろなことを教えてくれたものである。今考えれば兄は政治家にまったく向いていなかったと思う。哲学者や評論家になればあんな最期を迎えることはなかったのに」と語っている。(Wikipediaより)
近衛文麿と吉田茂。
近衛文麿と吉田茂の関係は、第二次世界大戦終結に向けた動きで深まり、特に終戦間近の「近衛上奏文」の共同作成が中心です。戦時中は、近衛文麿が昭和天皇への上奏を吉田茂らと行い、戦争早期終結を試みた一方、吉田茂は「ヨハンセングループ」として憲兵隊の監視対象となり、逮捕されるという出来事もありました。
吉田茂は、第一次吉田内閣総辞職後の昭和22年(1947年)頃から荻外荘を借り受け、昭和23年(1948年)10月まで約1年間、東京の邸宅として使用していました。
近衛文麿が死んだ書斎で寝起きしていたといいますが、その心境は如何なるものだったのかと想像されます。
荻外荘展示棟
今年(令和7年)の7月には東側道路の対面に建築家の隈研吾氏設計の荻外荘展示棟がオープンしています。展示棟1階はカフェとショップが設けられているようです。
荻外荘は善福寺川左岸の高台に建ち、かつてはここから富士山が眺められたと言われます。
荻窪の地は当時は富裕層に人気がありそれらの人々の別荘などが建てられ、現在も残るものがあるようです。ブログ作者は帰路に大田黒公園にも寄りました。北側の入口から入ると見事な銀杏並木がありこちらも素晴らしい公園でした。音楽評論家の大田黒元雄の屋敷跡の公園だそうです。
荻外荘は日本の近・現代史を知り語る場所としてこれからも多くの方々が訪れることでしょう。
日本の昭和の歴史を刻んだこの場所と建物は、現在の私達に何を語りかけているのでしょうか。






















