能見堂跡の北側には右手(東側)から接続する道があります。右手のこの道を降りて行くと尾根の下に不動池という池があります。金沢道はそこを真直ぐ北へ進みます。尾根上の道からも梢越しに不動池が見られます。上の写真は能見堂跡の北側で金沢道へ接続する道のところを撮影しています。写真は北側から見ていますので接続する道は左手方向になります。写真表面の階段状に上る先が能見堂跡の平場です。写真右手の道が金沢道の古道です。
やがて道の西側の視界が開け、三浦半島方面の遠望ができる場所に出ます。そしてこの場所には何故かガードレールがあります。このガードレールは推測するところでは、かってここまで自動車が入ってこられたことが想像されます。現在能見堂緑地内へは乗り物は入ることが出来ないようです。能見堂緑地内の史跡と古道は乗り物進入を拒むことで守られているのです。整備保全をされている地元の方々には頭が下がる思いです。
上の写真は展望のきく尾根道から三浦半島方面を眺めた写真です。能見堂跡のある尾根直下まで住宅が一面に立ち並び、絶景を誇った「金沢八景」の姿はそこには見られませんでした。古都鎌倉が世界遺産登録から外されていますが、鎌倉もここと同じように開発により文化的価値が大きく損なわれてしまっていますから世界遺産登録にはならなかったのでしょう。
開発優先とか経済成長優先とかいう考え方は、そろそろ方向転換した方が良いのではないでしょうか。真の価値を見失った現代人の都合だけで自然をここまで変えてしまって何とも思わないというのは如何なものでしょうか。人々の為の構造改革を今実践する必要を感じます。それは政治家や学者とか特定の人の問題ではなく、一般の人一人ひとりが真面目に考えなければいけない問題ではないのでしょうか。
上の絵は歌川広重の金沢八景です。現地説明版にあったものを撮影して掲載させて頂きました。江戸時代の絵師である歌川広重が、ここの景色に感動して描いたものと想像しています。風景を美しいと思える人はそれを描きたいと筆をとります。風景を心に残したいと思う行為なのだと考えます。今の日本には心に残したい風景がずいぶんと少なくなりました。それは心の豊かさが少なくなったこととも云えます。時の権威やマスコミに踊らされての世界遺産登録もけっこうですが、大事なことは「他人や世間に操られる事ではなく、あなた自身が真に大切と思えること」なのではないでしょうか。
鼻欠地蔵からの道
尾根道の古道を更に北へ進むと車止めがありました。尾根の左側(西側)から接続する道があり、その道から進入する車両等を緑地内へ入れない為のものと思われます。そしてこの辺りに朝夷奈切通から鼻欠地蔵の東で別れ、北へ進んだ古道が金沢道へ接続していたようです。
『新編鎌倉志』の鼻欠地蔵に、「鼻欠地蔵は、海道の北の尾根に、大なる地蔵を切付てあり、是より西は相州、東は武州なり。相・武の界にあるを似て、界地蔵と名く。像の鼻欠てあり。故に里俗、鼻欠地蔵と云なり。北の方へ行道あり、釜利谷へ出て、能見堂へ登る路なり」とあるこの道のこととも思われますが、今ではこの道の詳しい経路も定かではありません。
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金沢横町道標4基
金沢道は東海道保土ヶ谷宿(帷子町)まで続いています。金沢道が保土ヶ谷宿へ接続する交差点角に金沢横町道標と呼ばれる4基の道標があります。
以下、4基の道標(右から)
- 正面「圓海山之道」、右面「ゑんかいさんみち」 天明3(1783)
円海山は「峯のお灸」で知られる護念寺への道、円海山から鎌倉への通り抜けは「峯通」と呼ばれ古くは鎌倉道の間道とされています。 - 正面「か奈さわ/可満久ら道」、左面「久”めうし道」 天和2(1682)
かなさわ(金沢)かまくら(鎌倉)道はこのブログで紹介している金沢道で反対方向からは保土ヶ谷道と呼ばれています。左側面のぐめうじ道は弘明寺への道で、金沢横町から南へ岩難坂を上ったところにある岩井の「北向地蔵」から金沢道を分岐して弘明寺方面へ向かう道筋です。近世の弘明寺道筋が鎌倉街道下道とする説もあります。 - 正面「程ヶ谷の 枝道曲れ 梅の花」、左面「是ヨリ 杉田道」 文化11(1814)
句碑を兼ねた道標は珍しい。保土ヶ谷の枝道であったのか途中金沢道から分岐して梅の名所の杉田へ向かう道の道標です。 - 正面「富岡山芋大明神江乃道」 弘化2(1845)
この道標も杉田方面への道標か、杉田の先の富岡芋明神(長昌寺)が刻まれています。芋明神は、ほうそう(疱瘡)の守り神として信仰されていたとあります。
能見堂緑地内の掘割道
能見堂緑地の北側にも美しい掘割道が残っています。掘割道といえば鎌倉古道の典型的な姿と思い浮かべる古道通の人もいるのではないでしょうか。しかし掘割道が何故鎌倉古道の姿なのか具体的に解説された資料は殆どありません。
土木工学的に考えてみると掘割道というのは「道」として欠陥があると指摘されています。では何が欠陥なのか、雨が降ると水はけが悪いことが挙げられます。道路の路面というものは基本的に道幅の中央が高く、両サイドが低くなっています。このように造ることで降雨などの雨水は両サイドに流れ道脇の側溝に集まる構造なのです。
掘割道は中央が一番低いので雨が降れば水が溜まることになります。長期的に見ると湿地化しやすくなるのです。
掘割道は鎌倉古道の往時の道の姿ではなく、長い時間の経過による切通し状の道の姿の変化と捉えることが自然なのではないでしょうか。掘割道の古さは掘割壁面の傾斜角度とその深さに依属します。古道が使わらなければ掘割は自然と埋まって行くものです。逆に道として使用され続ければ掘割底面は浸食や流出でどんどん深くなって行きます。ですから掘割道はイコール古道とはいえないのではないでしょうか。
上の写真の付近の掘割壁に小さな道祖神塔がありました。壁に穴がくり抜かれその中にこぢんまりと収まっていました。
土木工学的にそのような道の姿を説明してみても、やはり掘割道は古道の趣があり美しく見えるます。人が歩く道から、自動車本位のアスファルト舗装の道となり、そのような道が当たり前の現在の街の風景に見慣れてしまった現代人には、掘割道は何故か懐かしく心の平安を与えてくれます。
能見堂跡の緑地内を北行して進んだ金沢道もやがて道先は上の写真のような高層団地の建物が立ち並ぶ手前で途絶えていました。古い地図では1970年代頃までは開発は進んでおらずこの先の古道もあったようです。
この先、金沢道は笹下、大岡、蒔田と進み、東海道保土ヶ谷宿帷子町へと続いていたのです。
参考文献
『鎌倉街道探索の旅 下道編』 芳賀善次郎
『鎌倉街道探索の旅 中道編』 芳賀善次郎
『中世を歩くー東京とその近郊に古道「鎌倉街道」を探る』 北倉庄一
『「鎌倉」の古道』 阿部正道
『中世のみちを探る』 藤原良章
より大きな地図で 能見堂跡の古道地図 を表示













