国宝 正福寺地蔵堂

正福寺地蔵堂内部

正福寺地蔵堂内部

正福寺地蔵堂の内部も円覚寺舎利殿と殆ど同じ造りになっているようです。建物を仏壇後方の二本の来迎柱(らいごうばしら)で支え、そこから大虹梁(だいこうりょう)が前方に張り出し大瓶束(たいへいづか)が屋根を支えることによって、柱二本を省略し広い内部空間を造りだしています。

裳階や主屋の庇の天井は垂木をそのまま見せた化粧屋根裏(けしょうやねうら)と呼ばれ、中央部一間のみは板を張った鏡天井になっています。内部の主屋の柱の上にも組み物が連続して並んでいます。内部では垂木が高くなっていくので、尾垂木の尻を伸ばしてきて、内部の桁を受けますが、尾垂木尻(おだるきじり)の下部には繰り形のついた持送りをつけています。これら組み物の内部の造りは尾垂木尻の架溝として禅宗様の特徴となっています。

正福寺地蔵堂内部裳階部

正福寺地蔵堂内部裳階部

堂内の裳階部には海老虹梁(えびこうりょう)という梁で主屋と裳階の柱を繋いでいます。これは梁の形が海老が尾を曲げた形に似ているところからそう呼ばれるようになったといいます。

堂内は窓が少ない割には意外と明るく、私が使用するデジカメでも何とかストロボ無しでも撮影できました。ご住職の説明では欄間が程良く外の明かりを堂内に伝えているそうです。欄間は下から二つ目の写真を見て頂ければわかるように、組子が真っ直ぐではなく、波型になっていて、この波型ゆえに風などが堂内に入りずらくなっているそうです。台風のときでも、ここをふさぐことはないということです。

堂内は土間になっていて、踏み固められた土がそのままの状態で、柱は礎石と礎盤の上に立ちます。ご住職の説明によると柱は表面がツルツルしたものと、ザラザラしたものがあり、ツルツルした柱は近年の修理の時に新しく取り替えられたものだそうです。建造物が国宝指定を受けるためには建築材が50パーセント以上古いものではなければならないという決まりがあるそうです。

正福寺地蔵堂内部から波型欄間

正福寺地蔵堂内部から波型欄間

建造物の美しさは屋根の形のバランスが一番影響するように思います。伝統ある建物の屋根は普通のものとはひと味違った趣があるものです。この趣は安定感とか安堵感といったようなものでしょうか。私がまだ学生の頃に東京国立博物館でこの正福寺地蔵堂の縮尺模型を見ていました。その模型を初めて見たときに円覚寺舎利殿だと思い、よく見ると東京都東村山市正福寺地蔵堂と書いてあるので、東京都内にも円覚寺舎利殿とそっくりな建物があることを知りました。その後現地へ初めて訪れた時は正福寺の場所がよくわからず付近を歩き回っていると、遠く墓地の向こうに素晴らしい形をした屋根の建物が見え、あれが地蔵堂だと見つけることができました。
正福寺地蔵堂が美しく見えるのは西側墓地の中程から眺めのが良いと思います。また、円覚寺舎利殿は普段は拝見することができないので円覚寺舎利殿を見てみたい方は正福寺地蔵堂を訪れることをお勧めします。

正福寺地蔵堂内部に納められる小地蔵

正福寺地蔵堂内部に納められる小地蔵

正福寺の境内、地蔵堂手前左の墓地側に小さなお堂があり、その中に「貞和の碑」と呼ばれる都内最大という板碑があります。東村山市指定文化財になっていて、高さ285センチメートル(地上部分247センチメートル)、幅55センチメートルと説明板にあります。釈迦種子に月輪、連座を配し、光明真言を刻し、貞和五年(1349)銘が刻まれています。

この板碑はかっては前川の橋として使われていて、経文橋とか念仏橋と呼ばれていたそうです。昔からこの橋を動かすと疫病が起こると伝えられていて、昭和2年に改修のため板碑を撤去したところ、付近で赤痢が発生したそうです。その後橋畔で法要を営み、板碑を正福寺境内に移建したといいます。

一番最後の写真は堂内に納められる小地蔵です。ここにあるものは、障害者の方が作られたものだといいます。前のページでもご説明したように祈願する人が小地蔵を一体借りて行き、成就するともう一体添えて奉納することから、地蔵堂内部は天井に近い長押にも小地蔵が並べられています。堂内にある小地蔵の数だけ病気が治ったということなので、増えた分だけ喜ばしいことだと語られていました。

一度見てみたかった地蔵堂の内部をご住職直々の説明付きで拝見でき、大変良かったです。更に雅楽の舞を直に見られ充実した1日を過ごすことができました。ありがとうございます。

 

※ 今から23年前に正福寺地蔵堂をこのように紹介していたブログ作者に我ながら驚いています。関東に幾つも無い国宝建築物というものが、その知名度の無さに嘆いていたのだと思います。国宝とは何かと言いたかったのでしょう(笑)
現在考えても、グローバル資本主義というものに洗脳されない趣味を持っていたのだろうし、自分の国の文化を大切に想っていたのだろう。かと言って右翼というものとも違うし、それなりに幸福というものに何が必要なのか悩んでいた頃だったのだと思います。