陸前浜街道の十王坂越

切通しを登りきると視界が開け台地上の畑地の中を真っ直ぐに進む道となりました。台地上は切通しの中の薄暗い気味悪さは全くありません。道の両側はごく普通のどこにでもある田園風景です。初めての古道歩きは、その先に何があるのかという新鮮さだけで、日頃の嫌なことは頭にはありません。ちょっとした悟りの心境になれるのです。この道は季節や一日の時間によって様々な表情を見せてくれることでしょう。これが古道歩きの醍醐味です。

掘割状の道が現れる

その先、しばらくは畑の中の一本道で、遠望も良く迷うことはありません。やがて古道を横切る道との十字路があります。その先は上の写真のような掘割状の道になっていました。

掘割状の西側半分が舗装されている

現在は掘割状の窪地の西側だけ舗装されていますが、かっての道幅は掘割の窪地全体であったかも知れません。この街道がこの地域の主要道であった頃の景観をあれこれ想像しながら歩くのは楽しいものです。

掘割状のところを抜けて振り返る
南から北側をみる

「森田敏隆写真集-文化庁選定歴史の道百選-講談社」という本があります。この本に出ている陸前浜街道十王坂越の写真はおそらくこの掘割状のところのものと思われます。この本の解説では「十王坂・伊師町線の砂利道が直線的に延びる。この付近が陸前浜街道選定区間であり、最も往時の面影を残している。」と書かれています。日付が2002年1月とあり、そのときはここは砂利道であったようです。

台地の中を真っ直ぐに進む道

上の写真で、舗装道路が砂利道で電信柱が無かったら、往時の街道そのままの景観になるのかも知れません。 ところでこの陸前浜街道の名称なのですが、明治5年に武蔵国の千住から陸前国岩沼までの太平洋岸の街道を「陸前浜街道」と呼ぶことになったといいます。「何だ明治以後か」、歴史と道としては新し過ぎるようにも思えます。

台地上の道を北から南側を見る

しかし、街道の名称が付けられたのが明治5年で、この街道そのものは江戸時代から使われていた「浜街道」なので近世の主要街道であることには代わりありません。長者山遺跡でも紹介しましたが古くは律令時代の官道からあり、平安時代の歌集などには常陸国と陸奥国の境に「勿来関(なこそのせき)」が置かれたことが見られます。

台地から南へ下る薄暗い切通し

勿来関の名の由来として、「来る勿(なか)れ」で古代に蝦夷の南下を防ぐ目的から名づけられたとする説があるようですが、詳しいことは分かっていないようです。当時の関のあった場所もはっきりせず、現在の福島県いわき市勿来町の関跡は後世に造られたものといわれます。

台地の南側の切通し-南から北側を見る

歴史の道百選の十王坂は勿来関の南にあるわけです。先ほども書きましたが陸前浜街道の名称は明治時代になってからで、近世の「浜街道」は時代や地域によって様々な呼ばれかたをしていました。よく云われるのが江戸から水戸までの間を「水戸街道或いは江戸街道」とし、水戸以北を「岩城相馬街道」と云う呼ばれかたです。

台地南側の切通しの途中のS字状カーブ