鎌倉街道と呼ばれるところは、上道・中道・下道以外にも関東各地には沢山あります。ここで紹介する越生町大谷の六地蔵峠は、鎌倉街道上道の鳩山町熊井から、西へ分岐してゆく支線の鎌倉街道が、越生町へ入り小峠を東西に越えていくところなのです。
『新編武蔵国風土記稿』入間郡大谷村の項には、「仏堂 昔阿弥陀堂ありし地なれば、この名残れりと云、此辺に塚三つあり、高さ五六尺許、何人の墳墓なるをしらず、塚上に嘉暦三年、文安四年の文字を彫たる古碑たてり、」
六地蔵峠付近は比企郡と入間郡の境で六地蔵・仏堂の地名があり、昔仏堂の阿弥陀堂があったといいます。その阿弥陀堂は街道に沿った辻に建てられた辻堂であったのでしょう。そしてここは、越生、秩父方面への玄関口にもあたります。昔は多くの人通りがあり、大谷銀座などとも呼ばれていたようです。峠には居酒屋があり、「おはんさん」という美人の看板娘がいたとも伝えています。
現在、峠付近には塚は見当たりませんが、嘉暦三年(1328)年の阿弥陀三尊板碑は現在し、享保五年(1720)年の六地蔵像があります。六地蔵像は六角柱に笠石を載せたもので、各面の地蔵像の下には、「今市」(越生市街地の旧名)、「あまてら」(子の権現)、「玉川」(比企郡玉川村)、「ひきのいわとの」(岩殿観音)の四方向が示されている道標でもあります。この六 地蔵がこの土地の地名の由来となっているのでしょう。ここにはその他にも江戸時代の馬頭明王塔、地蔵尊、念仏供養塔などが立ち並んでいます。
これら石造物の背面の林のなかには摩多利神社(小さな祠と石塔)があり、その前から南に山へ入ってゆく小径の道があります。この道が古道なのかどうかは分かりませんが、六地蔵峠で東西の鎌倉街道と交差していたと思われます。
ここ大谷の地名は古くは万葉の歌の候補地にもなっています。万葉集巻十四 東歌3378 相聞の部
「入間道の 於保屋が原の いはゐつら 引かばぬるぬる 我にな絶えそね」
入間路のオオヤガハラのいわい葛のように、引き寄せたら寄り添って、私との仲を絶やさないでおくれ。
大谷の北側に大谷ヶ原というところがあり、そこは沼が多い湿地態で大亀沼という沼があります。その沼に自生するスイレン科の水草、ジュンサイが「いわい葛」であるとし、この万葉歌の発祥地が越生の大谷であるとする説です。ただ、この歌の候補地としては他に、大井町(現ふじみ野市)、日高市の大谷沢、坂戸市の大家などがあります。
越生町を通る鎌倉街道は、この大谷の地蔵峠を通る道以外にもあります。鎌倉街道上道の女影宿の北の旭ヶ岡付近で上道から分岐して北西へ向かう道は、坂戸市多和目付近で高麗川を渡り毛呂山町の葛貫辺りから現在の県道の飯能ー寄居線とほぼ同じルートを北上します。この道筋は慈光寺道と重複していることから慈光寺への参詣路が中世の主要幹線路でもあったのでしょう。慈光寺道は黒岩で西の成瀬方面へ分岐しますが、鎌倉街道はそのまま北へ向ってときがわ町へ入り、本郷付近で小川町方面と玉川から嵐山方面への道に分かれ、いずれも元の鎌倉街道上道に接続していたと推定されます。
大谷の六地蔵峠を通る鎌倉街道は、下黒岩付近で慈光寺道から東に分岐して、越辺川を渡り、西和田の春日神社前を通り、北へ進みます。小字堀の内(大谷集落)付近で西へ折れ、小字如来戸から六地蔵へ向かいます。峠の東は鳩山町熊井で鎌倉街道上道に接続していました。
現在の大谷の六地蔵峠は、越生町市街地から鳩山町へ抜ける車道が越えていますが、板碑が立っていることなどからも中世からの歴史的雰囲気が漂うところです。伝説の鎌倉街道六地蔵峠は古代から近世・近代に至るまで陸上交通の要衝として利用されていました。ここには日本の里山的な風景が残っています。このような風景を後世へ伝えてゆきたいものです。
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