興福寺の五重塔がしばらく見られない

2022年・2023年・2024年と奈良を訪れたました。首都圏で暮らすブログ作者は2011年に大きな病気をして以来、近畿地方に足を向けることはありませんでした。大好きな文化財鑑賞も日帰りで行けるところばかりで、遠出は2018年の東北旅行だけです。気が付けば12年の月日が経っていました。コロナ過で出掛けることを遠慮していたブログ作者もようやく奈良へ出掛ける行動へ移すことができました。

猿沢の池から望む興福寺五重塔

猿沢の池から望む興福寺五重塔

奈良を訪れるのは2008年にこのブログでも記事を書いている「奈良新薬師寺旧境内大型基壇建物遺構」の時以来で、14年振りでした。

時間の経過の中で奈良の風景も幾分か変わっていたものがあります。再建中だった興福寺の中金堂が完成していました。また平城宮跡に再建中の大極殿も完成していました。奈良街中や観光地には外国人の旅行者が沢山いるのにも驚きました。猿沢の池の近くにあるコンビニの店員さんはみな外国人のようでした。

興福寺五重塔

興福寺五重塔

奈良の街の観光スポットとして真っ先に思い浮かぶのが“猿沢の池”で、そこから興福寺の五重塔を見上げると奈良に来ているんだ、そう実感される方は多いのではないでしょうか。そして2024年後半からその興福寺の五重塔がしばらく見られなくなるという情報を聞きました。再び見られるようになるのは令和12~13年といいますから約6年間ぐらい先になります。
大変残念な話ですが120年ぶりとなる大規模な保存修理工事ということですから仕方のないことではありますが。

興福寺中金堂

興福寺中金堂

ブログ作者は学生の頃から寺院建築に興味を持ち、それらの情報を得るために解説図書を買ったり、図書館で調べたりしていました。その頃は当然インターネットなど無く情報を得ることは一苦労でした。今は便利になりまいた。PC或いはスマホがあればネット検索でどこからでも調べられます。
しかし、理工系の情報にくらべると文化系の文化財などについての情報は少なく、またそれらは表面的な説明が目立ち他を検索しても似たようなものが殆どです。やはり詳しい情報がほしい場合は図書に限りようです。

興福寺の境内を歩いていてこれだけ多くの人々がここを訪れているのに、実際に寺院建築に興味がある人はどれだけいるのだろうか。
「国宝の建物。見たみた!」で終わってしまうのは残念なことです。
寺院建築など古建築を見る喜びは一歩踏み込まなくては得られないものです。ブログ作者は歴史や古美術の勉強ではなく、動物図鑑を見たり、魚釣りをしたり、天体観察を楽しんだり、山歩きで何処にどんな山があるのかなど調べたりするような心境で古建築鑑賞を親しんでいました。
「この建物のどこが美しいのか」、「なぜ国宝なのか」、「重要文化財と何が違うのか」、そんなことを真剣に考えていました。
寺院建築の詳しい解説書でお勧めは、「奈良で学ぶ 寺院建築入門」海野聡 集英社新書(2022)

度重なる災害にも復興をつづけ現在でも寺域を残している興福寺
興福寺は藤原氏の氏寺で和同3年(710)の平城京遷都直後から造営が始まり1300年ほどの歴史がある寺院です。立地的に興福寺は平城京を見渡す高台にあります。治承4年(1180)の平氏の南都焼き討で堂宇が失われましたがただちに再建されたようです。しかしその後も災害は跡を絶たなかったようです。
明治時代初めの神仏分離令による廃仏毀釈でも興福寺は甚大な被害を被っていたようです。五重塔も売りに出されたという言い伝えもあるほどでした。

三つあった金堂
興福寺には金堂が三つありました。伽藍の中心的な建物が中金堂で新しく再建された建物です。一方で五重塔の北に並ぶ建物が東金堂です。そして南円堂と北円堂の間に存在したのが西金堂ですが享保2年(1717)の火災の後は再建されず現在は基壇と礎石だけが残るのみです。西金堂は釈迦如来像本尊で現在国宝館にある阿修羅像などの八部衆像が安置されていたといいます。
興福寺は最初に建てられた中金堂から南円堂が建てられるまでおよそ100年の時間を掛けて伽藍が整ったといいます。

中金堂
興福寺の中金堂は2018年に再建されています。真新しい朱色の柱など新品ピカピカの状態です。再建された中金堂の実物を見ていると予想よりも大きく感じられました。桁行9間、梁行6間、単層裳階付、寄棟造り、本瓦葺き、そして甍には金色に輝く鴟尾が載っています。

興福寺中金堂

興福寺中金堂

中金堂には東金堂に無い裳階があります。裳階が有る無しでは建物の華やかさが違います。中金堂は東金堂より寺院の中心的な建物ですから一際目立つ造りになっているのでしょう。上層の屋根の軒の出は大きく雄大です。組み物は和洋の三手先で裳階部は出組です。奈良時代の建築の特徴である飛檐垂木は角形で地垂木は円形になっています。

中金堂から五重塔、東金堂を見る

中金堂から五重塔、東金堂を見る

中金堂の四面の外側は吹放しになっています。吹放しは唐招提寺金堂の正面が知られていますが建物に回廊がつながる場合に吹放しに造られるそうです。実際に中金堂の両側面に回廊跡が接しているのが確認できます。
壁も扉も無い吹放しは開放的で安らぎを感じさせる透き間でブログ作者は特に好きな空間です。内陣や外陣では仏に縛られ緊張する空間ですが、吹放しは建物に入るときの期待や未知の世界への不安への高まり、そして建物から出てきたときの解放感と未来に向かえる空間です。

中金堂から南円堂を見る

中金堂から南円堂を見る

再建された中金堂は木材の確保に苦労があったようです。これだけ大きな建物の木材は今の国内での入手は難しかったようで、アフリカケヤキ、米ヒバといった外国の木材が使われたそうです。

中金堂の本尊は釈迦如来坐像で現在見られる本尊は江戸時代の像です。薬王・薬上菩薩立像はかって西金堂にあった像と伝えます。他大黒天立像、鎌倉時代の四天王立像などがあります。

興福寺東金堂

興福寺東金堂

東金堂
現在の東金堂は室町時代に再建されたものです。奈良時代の建築様式(和洋)を基に建てられているといいます。興福寺の東金堂は唐招提寺の金堂と同じ規模で屋根の造りも同じ寄棟造りですからよく対比されることが多いようです。
興福寺の東金堂は唐招提寺の金堂よりも屋根が縦に長く匂配も急でボリュームがあるように感じられます。また専門的ですが大棟(屋根の最上部の水平な棟)が長めに造られています。これは隅木を外側にズラす「振隅」という技法だそうです。さらに桁行の中央三間に対して両脇二間は柱間が狭くなっていたりする特徴があります。

興福寺東金堂の軒下組物

興福寺東金堂の軒下組物

東金堂は建ちが高く軒のかぶりが少ないので屋根全体が浮き上がって見えるといいます。
東金堂の吹放しは左右両サイドを壁で覆っています。中金堂の吹放しよりも若干閉じ込められる印象があります。

五重塔と東金堂は同時代に再建されたようです。この二つの建物は奈良時代の建築のような軒下の組み物が大きく太く複雑に組まれています。しかし中世の建築技術も使われているようです。たとえば三手先の本来穴が開いている部分に白い塗装をして壁とくっついているのが分からいようにしています。このように部材を一体化することで構造的に強くする工夫をしているといいます。またこの部材の一部を白く塗るというのは古い時代の建物であるかのように見せるデザイン上の工夫とされます。

興福寺東金堂と中金堂

興福寺東金堂と中金堂

東金堂は薬師如来像を本尊とする薬師堂です。堂内では日光・月光菩薩立像、十二神将立像、文殊菩薩坐像、維摩居士坐像、四天王立像など見応えのある仏像を拝観することができます。またよく知られる国宝館の銅造仏頭はかっては東金堂の本尊像であって室町時代の火災後に頭部のみ残り本尊台座に長らく納められていたものが昭和12年に発見されたものです。そしてこの像は飛鳥山田寺の本尊像を鎌倉時代に興福寺東金堂の本尊薬師如来像として迎えられたものでした。

興福寺北円堂

興福寺北円堂

北円堂
「興福寺北円堂は藤原不比等、南円堂は内麻呂を祀っています。……この八角形という建物の形は先人を祀る廟所であることを示しているサインなのです。」(奈良で学ぶ 寺院建築入門ー海野聡)

この北円堂は八角円堂のうちで最も美しいと言われています。参考に他にどんな八角円堂があるのか。法隆寺の夢殿、栄山寺八角堂、広隆寺桂宮院本堂、法隆寺西円堂などがあります。
北円堂の特徴は鎌倉時代の和様建築です。現在のお堂は治承の焼き討ち後に再建されたもので現存する興福寺の一番古い建物といいます。その時代は新しい禅宗様や大仏様の建築が建てられるようになった時代ですがこの北円堂は創建当初の様式に拘って建てられたものです。しかし鎌倉時代ならでわの強固な造りの技術も見られるそうです。内部の二重の梁や柱と長押の接続で貫を隠して使用していたりする技術です。
この八角円堂の美しさは、宝珠、屋根の高さや軒の出、斗栱組物、柱の太さ、平面の高さなど絶妙なバランスがとれた姿が美しさを創り出しています。そして特徴的なものは垂木が三軒であることです。

興福寺北円堂

興福寺北円堂

この北円堂の中はブログ作者は残念ながら入ったことがありません。このお堂の中には是非観てみたい仏象があります。運慶晩年の名作と呼ばれる本尊の弥勒如来像と無著・世親立像そして平安時代の四天王像です。来年(2025)の秋(9月9日から11月30日まで)に東京国立博物館でこの北円堂の仏像達が東京へやって参ります。ブログ作者も楽しみにしています。

興福寺南円堂

興福寺南円堂

南円堂
南円堂は西国三十三所の第九番札所として知られます。現在の建物は江戸時代後期に再建されたものです。享保二年の火災のときに中金堂と共にこの南円堂も消失したといいます。江戸時代は興福寺も経済的に厳しい状況で中々再建が進まない最中、寺の中心的な中金堂より先に再建されたのは、南円堂が藤原北家の内麻呂・冬嗣親子ゆかりのお堂で更に江戸時代に盛んな観音礼所であったことなどが優先されたようです。
再建にあたっては北円堂が参考にされたそうです。確かに南円堂は北円堂によく似ていますがやや柱が長く屋根が高いようです。そして正面に拝所があることは大きな違いです。拝所が設けられたのはやはり観音札所であったからなのでしょう。近世の社寺では参拝者のために外部に向拝を設ける例が多くあります。拝所の屋根も唐破風で近世の特徴が見られます。

南円堂の内部は特定の公開日に拝観できるようです。不空羂索観音像、四天王立像、法相六祖坐像など優れた仏像もあり、ブログ作者も一度は拝観したいものと思っています。

興福寺三重塔

興福寺三重塔

三重塔
三重塔は興福寺では平安時代に建てられた建物ですが治承4年にも消失しています。北円堂と同じころに再建されていますが、北円堂は和洋の堂々とした力強い印象で、三重塔は繊細な印象といわれています。
三重塔は高さは約19mで塔としては小さめです。特徴的なのは初重だけ大きく組物は出組ですが、二重・三重は組物が三手先で軒の出も大きくなっています。これは初重を仏堂化して内部空間を広くしながら、二重・三重とは軒先ラインを揃えるという工夫がなされているようです。離れて見るとバランスよく整っていて美しい姿の三重塔です。しかし三重塔は中心伽藍より少し離れた南西の一段低い場所にあり訪れる人は少ないようです。五重塔が暫く見られないのであれば、是非この三重塔の前まで足を運んでほしいものです。

興福寺大湯屋

興福寺大湯屋

大湯屋
大湯屋は寺院の風呂場の建物です。「お寺にお風呂場があるのですか」そう思われる方もいるのでしょう。現在大湯屋が残る寺院はあまり見慣れません。お隣の東大寺にも大湯屋はあります。
興福寺の大湯屋は奈良時代からあったと考えられていて他の建物と同様に数度の火災に見舞われ現在見る建物は五重塔などと同様に室町時代の再建といいます。
この建物の屋根を注意して見ると西側が入母屋造りですが東側は切妻造りで、東側には隣接して何らかの建物があったのではないかといいます。建物内部は全面土間で鉄湯釜が2基あるそうです。
正面4間側面4間、一重、平三斗、中備間斗束、二軒繁垂木、西面入母屋造り東面切妻造り、妻叉首組、本瓦葺き
この建物は重要文化財でブログ作者が熱心にカメラを傾けると、それを真似て外人が一生懸命に撮影していました。一般の観光客は足を留めることが少ない建物ですが。

興福寺五重塔ライトアップ

興福寺五重塔ライトアップ

ライトアップの五重塔など現代人の趣向で好きではなかった。仏教の神聖な建築にライトアップとは何事か…。若い頃のブログ作者はそのように考えたかも知れません。しかし今では、それもいいんじゃないか。ダメだと拘ること、それが執着で仏陀の教えに反すること。過去の自分の心を許すこと、これすごく大切なことでこれが出来ると気持ちが楽になります。

五重塔
興福寺の五重塔は存在感が極めて強い印象があります。それは大きさなのか、高さなのか、どっしりした姿かたちからなのか。これぞ古都奈良のシンボルといった感じです。また京都東寺の五重塔も京都のシンボル的印象が強い塔で、両塔が持つ存在感は立地にも関係がありそうです。興福寺の五重塔は近鉄奈良駅から近く高台にあり奈良に訪れて最初に目につく建物で、東寺の五重塔は京都駅から近く新幹線からも眺められる、そういう地理的存在でいわゆるランドマークなのです。

興福寺の五重塔は室町時代に再建された塔ですが奈良時代の建築様式(和洋)に拘って建てられたといいます。

「そもそも塔は巨大建築物ですが、体積あたりの木材量も多いという特徴があります。普通に造ったら鈍重に見えてしまう建築です。それを回復するために軒の出を大きくすることで、塔身のボリュームに対してバランスを取っています。実際、塔と仏堂を比べると、柱間に対する軒の出の割合がとても大きく、のびやかな屋根を広げています。もし塔の組物が手先のないものであったら、塔身の木材の存在感ばかりが主張してくる、ボテッとした建物になってしまうでしょう。塔の高さと軒の出の関係は、設計者の鋭敏な美的感覚が表れているのです。」(奈良で学ぶ 寺院建築入門ー海野聡)
塔が美しく見える理由として海野氏のこの説明はブログ作者も素晴らしい指摘だと思い引用させて頂きました。

平安時代には奈良の古都にいくつもの塔が建っていたことを想像すると凄い景観になります。東大寺の東西両塔、興福寺の五重塔、元興寺の五重塔、春日東西両塔などがあったようです。

興福寺五重塔

興福寺五重塔

塔の逓減
ここで塔の逓減(ていげん)について触れておきたいと思います。初層の平面の柱間総長に対して、最上層の柱間総長がどれだけ小さくなっているかを逓減という言葉で表しています。初層と比べて最上層が小さければ逓減が大きい塔となり、最上層が初層とそんなに変わらなければ逓減が小さな塔となります。
初期に造られた塔は逓減率が大きく三角形で安定感があり、法隆寺五重塔や法起寺三重塔などがその例です。時代が新しくなると逓減率は小さくなっていく傾向があるようです。新しくなると建築技術が発達して三角形でなくても安定させられるようになっているようです。では興福寺の五重塔はどうでしょうか。最上層は初層の約七割で逓減が小さな塔ということす。興福寺の五重塔は高さが約50mある大きな塔ですから下から見上げると遠近感で上層が小さくなるのを補うためか逓減を小さくしているのかも知れません。

大規模修理前ということでこの五重塔の初層内部の特別公開が行われていました。ブログ作者も五重塔内部に入るのは初めてでした。思ったよりも狭くはない空間で四天柱がどっしりと建ち中央には板で四角に囲まれた心柱があります。四方に薬師如来(東)、釈迦如来(南)、阿弥陀如来(西)、弥勒如来が(北と)がそれぞれ三尊像で配置されています。表情は睦ましい室町時代の仏像です。須弥壇の下から礎石上に立つ心柱も見ることができました。

五重塔の修理は瓦葺屋根の全面葺き替え、痛んだ木材の修理、しっくい壁の塗り直しなどが予定されているようです。また修理の過程でより根本的な修理が必要な個所が見つかる可能性もあるといいます。薬師寺東塔のような全面解体修理ということではないようですが向こう6年間ほど塔を仰げないのはさびしいものです。

興福寺西金堂跡から五重塔を見る

興福寺西金堂跡から五重塔を見る

自分に寺院鑑賞の楽しさや素晴らしさを教えたくれたものへの感謝。寺院建築はちょっと知識を持て接すれば魅力に引き込まれて行きます。

国宝建築のある十輪院へ行った帰路に史跡元興寺塔跡というのを見つけました。周りが住宅に囲まれた空間に基壇と礎石だけが残る場所です。元興寺の五重塔は興福寺五重塔よりも高く、江戸時代末期に焼失するまでここにあったということですが、今では幻の塔になってしまいました。

ブログ作者も60代後半で最近健康に自信がもてなくなっていました。再び興福寺の五重塔を見ることができるのか。

平城宮跡で近年建てられた大極門を見学しました。そこで説明頂いたガイドさんが現在東楼を建設中で更に西楼、そして第一次大極殿院を取り囲む回廊も建設予定があるとか。ブログ作者は「全てが建てられた景観を見ることができるのかな」とつぶやくと。ブログ作者と同じくらいの歳のガイドさんは「それまで頑張りましょう」と言って頂けました。