古い道標を探しに関東各地を旅しています。古い道標は石仏に道標銘が刻まれていることが多くあります。古い道標の情報はネット検索で見つかることもありますが、しかしその多くは現地の図書館など郷土資料から探すことが殆どです。
石仏や道標をホームページやブログで紹介する人は確かに多くはありません。というよりも、現代の人々は石仏には興味があまりないのではないかと思います。
道標の写真を撮るために、現地に赴く前にグーグルマップにでその場所を記しておき、現地ではそのマップを頼りにスマホやタブレットで其処へたどり着くといった具合で見つけています。しかし、こういった行為は意外と危険が伴います。知らない土地でうろうろしていると乗り物とぶつかりそうになったり、道路側溝に落ちそうになったり、スマホなど見ながら歩いていると人や自転車と接触しそうになります。事故だけは絶対に避けなくてはいけません。
あるときの話です。タブレットを見ながら石仏を探していると、「おっと、危ない」前からきた自転車と接触しそうになりました。自転車に乗っていたのは、近所のおばさんらしき女性でした。近所の人なら石仏の場所をご存知かも知れないのでその人に聞いてみました。「すみませんがこの近くにお地蔵様の石仏があるらしいので探しているですが、その場所をご存知ありませんか」と、すると相手の方は、「石仏ですか、興味がありません」と突き放されてしまいました。私は石仏の場所を尋ねたのでした。おばさんが石仏に興味があるかを尋ねたのではないのですが…。
さて、いろいろな道標石仏を見てくると道標で無い石仏でも良いものがあれば自然とカメラを構えシャッターを押します。
奈良・平安・鎌倉時代辺りの仏像には興味がある人もいるとは思いますが、こと近世の石仏となると身近の路傍や神社仏閣の境内や墓地などに沢山あるにもかかわらず、それらに興味を向ける人は少ないことは残念ながら事実です。
身近な近辺に存在し近世に触れられる文化財を多くの人達に知って頂き興味を持ってもらいたいものです。身近な文化財に興味を示さない人が、世界遺産登録となると大騒ぎするのはおかしなことです。経済効果だけが全てではないと思います。
前置きが長くなりました。今回は、近世の石仏でも見応えのある一つをご紹介します。
熊谷市(旧江南町)押切 弁財天座像石仏(通称 波乗弁財天像)
駒形光背 半浮彫一面八臂座像(半跏像?) 享保12年(1727)
高109㎝(うち、台石15㎝),幅39㎝,厚20㎝
石仏で弁財天というのはそんなに多くはありません。荒川の押切橋の南西にこぢんまりとした墓地があります。その墓地の中央を東西に村道が通り、集約された石仏の列の左端にこの像は置かれていました。押切という地名は、川の水が土手を押し切ったことから付けられた名のようです。この土地は荒川の水害を度々受けたところなのでしょう。
弁財(才)天はヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティーが仏教の天部として取り込まれたものとされます。日本では神仏習合の神でもあり、一般的に水辺の神として知られ、この石仏がここ荒川右岸の押切にあるということは荒川の治水にかかわるものとして祀られたものなのでしょう。弁財天は他方で音楽などの学芸の神でもあり、幸福や財産・利益また功徳など福徳の神としても知られています。日本ではよく知られる七福神の一員としてもお馴染みです。
弁財天の姿として八臂像と二臂像が知られています。八臂像は手が八本ありそれぞれの手に仏具・財宝・武具などを持っています。二臂像は手が二本で琵琶を弾奏した姿が一般的に知られ、江ノ島の妙音弁財天はこちらの姿です。
弁財天の表記は「辯才天」と「辨財天」があり、「辯」と「辨」は戦後当用漢字の制定により共に「弁」に代用されました。「才」と「財」の違いは詳しくは解りませんが、才は知能や学・才識で、財は財産であり富と捉えることができるのではないでしょうか。
さて、この押切の弁財手は手が八本ありますから八臂弁財天で台座に波が陽刻されていることから「波乗弁財天」と呼ばれているようです。光背に浮彫されたお顔は優しく微笑まれているようです。左手には、宝珠、宝輪、弓、鈎を持ち、右手には、宝剣、三叉戟、宝棒、羅索をもっています。頭上には蛇身を乗せその上に鳥居があります。更に光背上部には日輪、月輪も配されいます。法輪や衣装、波頭などに朱のが彩色が見られます。
この石像が制作されたのは享保12年の江戸時代中期、享保の改革などが行われていたときです。それより20年前には富士山の宝永大噴火がありました。更に阿部正弘の開国の127年前になります。現在2018年ですから291年前に作成されたこの「波乗弁財天像」は土地の人々が五穀豊穣の願いを込めて制作されたものだったのでしょう。