永保寺(えいほうじ)は岐阜県多治見市虎渓山町にある臨済宗南禅寺派の寺院です。山号は虎渓山(こけいざん)といいます。虎渓の名称は景色が中国廬山(ろざん)の虎渓に似ていることからそう呼ばれているようです。
このお寺の見どころは観音堂と開山堂の二つの国宝建造物と国指定名勝の庭園及び境内の自然地形です。
訪れたのは11月半ばで寺の観光名所としてのモミジや銀杏の紅葉はちょっと早かったようです。しかし、地方の寺院としては意外にも多くの人々が訪れていました。特にアジア系の外国人が多かったことは驚きました。
上の写真は2003年に火災に遭いその後早々再建された本堂及び玄関・庫裏です。募金活動や復原計画、設計・建設などが円滑に行われた好例だったのではないかと思います。本堂と玄関は檜皮葺で庫裏は瓦葺、古刹に相応し建物になっていました。
この永保寺は拝観料は取られません。由緒ある素晴らしい庭園と国宝の建築物があるにもかかわらず自由に見学できるのは有難いです。
「気持ちのよい境内だった。押しつけがましいところがないので、久しぶりで禅寺の閑寂さにひたることができた。もちろん観光客はいない。雲水達が作務に従事しており、枯枝や落葉をかきあつめて空地で燃やしていた。京都や鎌倉の寺に撮影を申しこむと、何万円よこせと僧侶がすぐ手をだすが、ここ永保寺では、どこからどう撮影しようと文句はでなかった。」
立原正秋氏は『日本の庭』でにこのように語られています。
オーバーツーリズムが問題とされるようになった昨今ではこの永保寺でも拝観料を取るようになるのかどうかわ分かりません。一昨年の秋に京都を訪れていましたが嵐山の人の多さには大変に驚いていました。天龍寺の境内は人だかりで移動もままならない混雑ぶりでした。天龍寺北門近くの竹林は外国人観光客でごった返していて「竹林の静寂を味わう」などと言うのとは正反対で賑やかでした。
さて話を永保寺に戻して進めます。
永保寺はご存じの方も多いと思いますが、夢窓疎石(むそう そせき)が開創と伝えています。夢窓疎石は鎌倉時代末期から室町時代初め頃かけての臨済宗の禅僧です。時の権力者の足利尊氏・直義兄弟から崇敬され後醍醐天皇から尊崇を受け国師号を下賜されています。作庭家としても良く知られていて京都の西芳寺や天龍寺の庭園は夢窓疎石の作として有名です。この永保寺庭園も夢窓疎石が手掛けたものと伝えられてきています。
夢窓疎石は1313年にこの永保寺へ隠棲(いんせい)していて、ここは土岐川の清流と山に囲まれた景勝の地、そういった自然地形を巧みにいかして造園されたといのが永保寺庭園であるということです。
この庭は確かに素晴らしい庭であることには間違いないのですが、庭園素人のブログ作者の眼からしても禅寺の庭園というよりは平安時代の浄土庭園(寝殿造りの庭)と考えた方がよさそうに想われます。
いやいや、そんなことはない、六角堂が頂上に建つ梵音巌(ぼんのんがん)からは飛瀑が流れ落ち、臥龍池(がりゅういけ)には無際橋(むさいきょう)と呼ぶ亭橋(ていきょう)が架かる。その橋の先には観音閣が建つという景観はまさに禅の庭そのものではないか。という声も聞こえてきそうです。
「この寺の冸池式の庭は平安末期の作庭手法がとりいれてあり、疎石がそこに手を加えた形跡はみられない。御堂が建っているところから池に向って懸崖飛瀑(けんがいひばく)があるが、これは厭きない眺めだった。作庭のことをなにも知らない人が、この庭は疎石作だといわれ、ああ、いい庭だ、と思えば、私はそれでよいのだと思う。」
立原正秋氏は『日本の庭』にこう書いています。
永保寺の観音堂(水月場とも観音閣とも呼ばれる)は『夢窓国師年譜』によると正和3年(1314)に観音閣を建つと書かれているのでそのときの建立とされています。その通りと考えると鎌倉時代の建物ということになりますが、古建築の専門家の判定は南北朝期に下り再建されたものと考えられているようです。
ブログ作者は寺院建築が好きで禅宗様建築をいろいろ見てきていますが、この観音堂は珍しい建物です。桁行三間、梁間三間、一重裳階付、入母屋造、檜皮葺。池の対岸から離れて観ると檜皮葺の屋根の軒が大きく反り返しているところは禅宗様建築の特徴ですが、近寄って観ると他の禅宗様建築とは違うところが多く見られます。
まず低い板敷の床は禅宗様建築としては稀です。主屋根も裳階も軒の垂木が無く板軒となっています。組物は柱上が出組みとなっていますが禅宗様建築特有の詰組がありません。裳階の組物は出三斗です。裳階の前面は吹放しですが禅宗建築とし吹放しはあまり多くはありません。一方で禅宗様の特徴としては桟唐戸(さんからど)、弓欄間(ゆみらんま)、細い柱などが確認できます。外観からの特徴では以上のことに気が付きました。
ブログ作者は建物の内部は見ていないのですが、鏡天井で岩窟の形の逗子に聖観音座像が安置されているそうです。
永保寺観音堂は禅宗様を基本としながらも随所に和様の特徴を持つ折衷様といわれていますが、折衷様としても珍しい造りだと思いました。和様の住宅建物の要素も見られるお堂なのです。
上の写真は無際橋から眺める梵音巌 (ぼんのんがん)と呼ばれる岩の崖で、岩の頂部に建つのは六角堂(千体地蔵が祀られている)です。梵音巌には滝が流れていますが自然の滝のようで、梵音巌そのものは庭園の一部として人が手を加えたものではないようです。
観音堂の南の臥龍池に架かる無際橋は永保寺庭園を特徴ずける存在です。屋根を持つ亭橋は渡るためだけではなく憩うところでもあり、回遊庭園にはよく見られるものだったようですが、現在でも残り見られるとここは数少ないようです。この無際橋そのものは古いものではないようですが、初めに観音堂が建てられたときにも亭橋が存在したのかどうか詳しいことは分かりませんでした。
臥龍池の西の奥に開山堂(かいざんどう)があります。ここは林の中のやや薄暗い空間ですが禅宗様の典型的特徴を持つこじんまりとした建物の前では中世の世界へと引きずり込まれて行きます。
開山堂は僊壺堂(せんこどう)とも呼ばれています。寺の創始者・開山を祀るお堂です。創始者は夢窓疎石で開山は元翁本元(げんのうほんげん・仏徳禅師)です。正面からは分かりずらいですが堂は奥の祠堂(しどう・内陣)と手前の昭堂(しょうどう・外陣、礼堂ともいう)を相の間でつないだ構造になっています。
祠堂は高い石壇上に、桁行一間、梁間一間、一重裳階付、入母屋造り、檜皮葺の建物となっています。奥に元翁本元の墓(宝篋印塔)があり手前には元翁本元と夢窓疎石の像が安置されているそうです。
昭堂は、桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造り、檜皮葺です。この建物は観音堂と同じく四隅の軒反りが大きくなっています。詰組三手先組物、軒は二軒の扇垂木、桟唐戸や窓には花狭間(はなざま)を用いていて禅宗様建築のお手本のような姿です。内部は化粧屋根裏で前後に大虹梁をかけて柱を立てず床は瓦四半敷となっているそうです。
開山堂は元翁本元が亡くなられて20年、夢窓疎石の亡くなられた翌年の文和元年(1352)の創建といわれますが、様式的にはそれよりやや後と見られているようです。初めに祠堂が建てられ、後に昭堂が増築されたと考えられているようです。この祠堂と昭堂を合わせた造りは後の時代に八棟造とか権現造として霊廟建築の基礎となったようです。
永保寺開山堂は現存する最古の開山堂といわれます。
永保寺は拝観料は無料ですが残念ながら国宝の建物の中には入ることができません。しかし年に一日(3月15日)だけ涅槃会に合わせて宝物一般公開が行われているそうです。その日は観音堂も開山堂も内部が公開されるようです。ブログ作者も一度はその日に永保寺へ訪れてみたいと願っています。
永保寺は禅宗のお寺では京都にも無い庭園と国宝建築物が揃っているお寺です。心のリセットに是非訪れたいところなのです。
作庭のことは何も知らないブログ作者は、「ああ、いい庭だ」また何度も訪れたいとそう思いました。