所沢市の「東の上遺跡」で古代道跡が発掘されたのは平成元年(1989)で、この道路跡は「東山道武蔵路」と呼ばれ、武蔵国府から群馬県太田市付近の東山道本路に接続していた支線の古代官道と推定されていました。
道路跡は7世紀後半から10世紀頃まで使用されたと考えられ、道路側溝と思われる二本の溝の間が幅12メートルあり、その中に道路としての硬化面及び補修の痕跡と思われる波板状凹凸などが検出されました。
「東の上遺跡」の古代道路跡発見後に東京都国分寺市で所沢市で発見された道路跡と繋がっていたであろう古代の道路跡がおおよそ300メートル程検出され大きな話題となりました。
「東の上遺跡」から北側の古代道路はどこをどのように通っていたのか、研究者により議論されてきましたが、最も有力視されていた道筋は所沢市内から狭山市の堀兼方面へ向かう鎌倉街道掘兼道があり、この鎌倉街道は古代道を踏襲していたのではないかという説でした。
平成24年(2012)に所沢市下富の柳野遺跡(鎌倉街道堀兼道が通る場所)で発掘調査が行われました。東西二本の並列する道の間で古代道が想定されていたところの発掘で、東の上遺跡と同様な道路面の踏み固められた跡(硬化面)と西側側溝と思われる溝が検出されました。道路面からは東の上遺跡で見つかっている同時代の土器片も確認され、柳野遺跡の道路跡は東の上遺跡で発見された東山道武蔵路の延長線ルートである可能性が高いと判断されました。
長年議論されてきた、鎌倉街道掘兼道が東山道武蔵路を踏襲しているという説が柳野遺跡の発掘でかなり現実味を帯びてきました。
下の写真は平成26年3月時点の発掘現場で、遺構は埋め戻され駐車場となっています。発掘地点はネオポリス西信号の北約200メートルで老人ホーム真和の森の前道路対面側です。鎌倉街道堀兼道二本の並列道路の間隔が狭いところで、写真を見て頂くと駐車場の西側がやや高く車道側が低く窪んだ様になっています。発掘された道路跡は幅8メートルで、現在車道の下にも道路跡と東側側溝が埋まっているものと考えられています。
推定東山道武蔵路は発掘現場から北へ鎌倉街道掘兼道を狭山市内まで進み「堀兼井」で知られる堀兼神社付近を通り、その先は狭山市内の鎌倉街道掘割状遺構へ続き川越市内へ入ります。入間川の八瀬大橋付近を渡り直ぐに「駅長」墨書土器が出土した川越市「八幡前・若宮遺跡」の近くへでます。
その北は二つの推定ルートに分かれます。東側は川越市下広谷の「古海道東遺跡」から吉見町「西吉見条理Ⅱ遺跡」方面へのルートで、西側は坂戸市「町東遺跡」から東松山市下野本「将軍塚古墳」の近くを通るルートです。両ルートとも熊谷市荒川南側付近で合流して北へ進み、最終的に群馬県太田市の東山道本路の「新田駅家」付近で合流したと考えられています。