日立市十王町長者山遺跡の説明会

今回、日立市郷土博物館に問い合わせたところ、説明会の様子や展示品写真のブログ掲載許可が得られたので、それらの説明文を基にしてブログの作者の感想を交えて解説してゆきます。

以下、現地説明会での展示品の説明からー

ーはじめにー

「長者山遺跡」は『常陸国風土記』に記載されている「藻島駅家」の有力な候補地です。十王町史編さん事業の一環で、平成17年度に藻島駅路跡の発掘調査を実施し、平成18年にはその継続調査として日立市十王町伊師の愛宕神社境内の調査を実施しました。その結果、古代官道跡とその官道跡に沿って官衙的性格の強い建物跡を発見しました。このため交通・官衙遺跡として平成19年度に茨城県教育委員会へ新規遺跡登録をすることとなり、「長者山遺跡」と名付けました。平成20年度から5か年計画で国庫補助事業として実施した学術調査によって、20棟の建物跡、道路跡、溝跡などの遺構や土師器や須恵器などの遺物を発見しました。文献に記された施設の実体が遺跡の発掘調査によって明らかになることは貴重なことであり、古代の日立市周辺や社会の様相を復元する上で重要な手がかりとなります。

長者山遺跡が「藻島駅家」の候補地とされる理由

  • 『常陸国風土記』に記されている他の場所との位置関係
    「多珂郡」の郡衙が現在の高萩市下手網の大高台遺跡(おおたかだいいせき)に想定され、そこから南へ30里(約16キロ)に「藻島駅家」が置かれた。
    ※しかし、大高台遺跡から長者山遺跡までは8キロしか離れていない。
  • 十王町伊師の中に「目島(めじま)」と付く字名がある
  • 考古学的な調査によって、道路跡と官衙に関連する施設を確認した

遺跡名の由来

長者山遺跡の名の由来は長者伝説にあります。長者伝説とは、かってその地には長者の屋敷があり、今でも土を掘ると米が出て、酒の香りがするという伝説です。この伝説が残る地に礎石や土塁、古瓦などが見つけられる例が多々あり、考古学的な調査を実施すると古代の官衙(役所)に関連する遺跡がしばしば発見されます。 日立市の「長者山遺跡」周辺もまた、この長者伝説が残る地のひとつです。

陸前浜街道(十王坂)と愛宕神社

ー1.古代官道とはー

古代「官道」とは、律令の制定により7世紀後半から8世紀にかけて整備された情報伝達を最大の目的とする公的な道路のことです。律令制の行政区画は「五畿七道」と呼ばれ、令制における地方行政区画(令制国)を官道で区分したものです。五畿とは畿内五国(山城・大和・河内・和泉・摂津)、七道とは(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)を意味します。律令国家の地方行政機関として各地には国府が設置され、地方を支配する重要な役割を果たしました。このような国家による地方支配を確立するために、中央と地方の国府が連絡を取り合う手段として「官道」は必要不可欠なものでした。「官道」の最大の特徴は直線的に道路を建設する点にあります。低地は盛土で整地し、台地は切り通しを削りだし、「官道」は最短距離で各地を結びました。

ー(1)駅制(駅路)についてー

官道には30里(約16㎞)ごとに駅家を設け、駅馬が置かれました。これを駅制と言います。駅使は駅家で馬を乗り換え、直線的な官道を走り、情報の伝達を 行いました。この方法は当時において最速の手段であり、駅制を全国に行き渡らせることで古代国家は地方支配を確立したと言えるでしょう。駅馬は官道の種類 (大小)によって各駅に置かれた頭数が異なります。都と大宰府を結ぶ山陽道は「大路」と呼ばれ駅馬が20頭、都と東国・陸奥・出羽を結ぶ東海道・東山道は 「中路」と呼ばれ駅馬が10頭、北陸道・山陰道・南海道・西海道は「小路」と呼ばれ駅馬が5頭置かれました。

ー(2)伝馬制(伝路)についてー

七道以外にも国と郡や郡と郡を結ぶ官道「伝路」が設置され、郡衙(郡家)に伝馬が置かれました。これを伝制と言います。伝馬は各郡衙に5頭ずつ置かれました。

十王町伊師の愛宕神社拝殿