ところでここ慈光寺には多くの文化財があり、本坊の隣にはそれら文化財の一部を展示した収蔵庫(宝物殿)があります。
慈光寺の文化財といえは国宝の「法華経一品経(ほけきょういっぽんきょう)・阿弥陀経・般若心経 三十三巻(慈光寺経)」が何といっても逸品です。昭和58年に行田市の埼玉古墳群・稲荷山古墳から出土した「金錯銘鉄剣」が国宝に指定されるまで埼玉県の国宝は慈光寺経のみだったのです。その後「太刀」(景光・景政作)、「短刀」(景光作-謙信景光)が埼玉県立歴史と民俗の博物館所蔵となり、更に平成24年には熊谷市(旧妻沼町)の歓喜院聖天堂の大規模修理が終了するとこれが国宝に指定され現在埼玉県には5件の国宝があるのです。
慈光寺経の特徴は装飾経といい、各巻の見返部に金銀泥の砂子や拍を散らした極彩色の山水画や仏画などが描かれ、天地に蓮弁、唐草などの模様をつけ、経文の行間には載金(きりがね)の技法などが施され、文字は金泥・銀泥で書かれているなど優美・華麗な平安時代の王朝貴族美術の装飾を取り入れた経典のことです。
この慈光寺経は後鳥羽上皇、中宮宜秋門院(ちゅうぐうぎしゅうもんいん)や中宮の父、関白九条兼実とゆかりの人々によって書写奉納されたもので、九条家と鎌倉幕府が強い繋がりがあり、慈光寺が頼朝以来将軍家の祈願寺であったためと考えられています。
法華経一品経・阿弥陀経・般若心経 三十三巻の構成は、開経である無量義経1巻、結経である観普賢経1巻、法華経二十八品28巻、(別に普賢菩薩勧発品の補写1巻)、阿弥陀経1巻、般若心経1巻の計33巻と文永7年の筆者目録1巻、寛政2年の補写目録1巻からなります。慈光寺に訪れてもこれら全てを見ることはできませんが本堂(阿弥陀堂)で模写(陶器)展示を見ることができます。
現在は東国の寂れた山寺の慈光寺も鎌倉時代には鎌倉幕府や都の有力貴族との深いかかわりがある寺であったことを忍ぶ貴重な文化財であるのです。
慈光寺には慈光寺経よりも古い貞観13年(871)に上野国権大目安部小水麻呂(こうずけのくにだいさかんあべのおみずまろ)が書写奉納した「大般若経六百巻」があります。これは関東最古の写経として国指定重要文化財に指定されています。
鎌倉時代前半までにこのように栄えていた慈光寺も、頼朝以後源氏三代が絶え北条氏へ実権が移ると次第に衰退へと向かいます。戦国時代に慈光寺が焼き討ちを受けたと想定される記録が「慈光寺略誌」に見られます。
北条氏康の家臣松山城主上田案独斎が平村大津久山に出陣してして慈光寺を窺い、慈光寺の寺僧は宝物を土中に埋めて遠山へ避難した。案独斎隊は慈光寺を焼き伽藍の多くが焼失したが、観音堂のみ火災を免れたが寺宝の多くが紛失してしまったという内容です。
慈光寺にかって存在した七十五坊の殆どが現在残っていないのは中世末期の焼き討ちによるものと推測されていましたが、具体的に何時どのように失われたのかはっきりしていないようです。上田案独斎の焼き討ちが事実とするならばこのときであっのでしょうか。越生町麦原の大築城はこの上田案独斎の慈光寺焼き討ちに利用された城との説もあるようです。奥武蔵の主たる城跡の殆どが当時の主要街道沿いにあるのに対して大築城は慈光寺の南約5キロの山中にあり、この城の築城に謎が多いとされています。確かに城の東に古い慈光寺道が通じています。
慈光寺の衰退をあれこれ想像してみるのも面白いことです。
本坊の西の霊山院へ向かう道を少し進むと長い石階段があります。この階段を登ると坂東三十三観音霊場第九番札所の観音堂があります。現在の観音堂は享和三年(1803)に再建されたものです。銅板葺ですか解題修理以前は茅葺であったそうです。本尊は千手観音立像で天文十八年(1549)の制作とされますが、それも頭部のみで体部は享和二年(1802)の制作だといいます。本尊の千手観音立像は秘仏で四月の開帳時以外は厨子の中で拝見することはできません。堂内には畠山重忠の念持仏と称される十一面観音立像、木造毘沙門天立像、伝説の「夜荒しの名馬」という馬の彫刻などがあります。
慈光寺の寺伝では慈訓が千手観音堂を建て観音霊場としたといわれ、観音堂の千手観音立像が寺の本尊とされます。
現在の観音堂がある場所の下方、石の長い階段の下で本坊の西の79番平場と呼ばれるところで、室町時代の屋根瓦を敷き詰めた跡が発見されています。そこが古い観音堂があったところといいます。
かっては七十五もの僧坊が軒を連ねていたという慈光寺。奈良時代から関東の仏教拠点として歴史を伝える山寺に四季の風情は今も移ろいで行くのでした。
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