板碑群がある山門跡からふたたび山の尾根を登る旧道があります。この道は「女人道」と呼ばれています。慈光寺は女人禁制でしたので山門跡はかっての女人禁制の結界があったそうです。女性は結界を避け女人道を登り坂東観音霊場第九番札所慈光寺観音堂へと向かったということです。
女人道は此れまでの参道よりやや狭い道になっていました。途中所々に石仏が見られ「女人道」の道標を兼ねた石仏もありました。
上の写真の女人道道標石仏を過ぎてしばらくすると分岐がありそこで右の広い道を進み少し登れば釈迦堂跡西側の鐘楼下へ出ます。ここまで来れば慈光寺の中心的な境内地です。
釈迦堂跡は現在は広い空間になっていて、かっての釈迦堂基壇が残るところです。昭和60年11月26日に火災で釈迦堂および東隣の蔵王堂などが焼失しています。ブログ作者は焼失前の釈迦堂を見ています。茅葺の大きなお堂でした。薄暗い堂内中央に大きな釈迦如来像があったこともおぼえています。当時撮影した写真が有るはずなのですが、古い写真の整備ができていないので探し出せませんでした。写真が見つかれば追加で掲載したいと思います。
焼失した釈迦堂は元禄八年(1695)に再建されたものでしたが、基壇には二層の焼土層が認められ、そこに室町時代の瓦がみられ室町期には瓦葺の釈迦堂が存在していたようです。
昭和60年の火災では釈迦如来像をはじめかっての山門から釈迦堂に移された仁王像、蔵王堂にあった蔵王権現立像なども焼失しています。
現在釈迦堂跡東側にお堂が一つ建っています。このお堂は国指定重要文化財の木造宝塔の覆堂です。釈迦堂が火災の時にこの宝塔が残ったことは幸いです。 宝塔は鑑真の高弟の釈道忠の墓に建てられた開山塔です。現在の宝塔は室町時代のもので他に例がない独特の建築技法で極めて貴重な建造物です。昭和39年に解体修理が行われたさいに、現在の宝塔以前の物と考えられる風鐸、宝珠、扉金具などの装飾金具が発見されています。同時に経文を墨書した平たい小石や焼骨が納められた須恵器製の蔵骨器も発見されています。
道忠は「広恵菩薩」と敬称され行基のように民衆に対し布教を行っていたと考えられ、慈光寺の他、上野国の縁野寺の建立、下野国の大慈寺の復興など関東を中心に活動していました。道忠の門弟には円澄をはじめ天台座主を務めたものが名を連ねているそうです。
釈迦堂跡の西側には鐘楼がありこれも国指定重要文化財の「寛元三年銘 銅鐘」があります。この鐘は寛元三年(1245)五月十八日に栄朝が願主となって奉納されたものです。鋳造者は「物部重光(もののべしげみつ)」という人で、鎌倉建長寺の国宝梵鐘や鎌倉大仏を手掛けた名工で、鎌倉期関東鋳物師の代表的人物です。
臨済宗を伝えた栄西の高弟の栄朝は当山に住し塔頭の霊山院を創建し禅の道場としました。この頃の寺域は天台の宝樹坊、密教修験の不動坊、禅宗の霊山院の三塔頭を中心とした「七十五坊」が存在していて、現在も釈迦堂跡をはじめ山中腹に多くの平場を確認することができます。 台密禅修業の天台宗の関東別院としての偉容を整えていたようです。銅鐘の銘文にある「天台別院慈光寺」の文字から当時この寺の重要性がうかがえます。
鐘楼の西側に古い境内道の跡と思われる切通しが見られます。まるで鎌倉七口の切通しのように両壁が切り立っている道跡です。
上の旧道と思われるところは現在は登れません。崩れて危険なのか立ち入り禁止のようです。この旧道の上へ現在の舗装道路で迂回して上がれば、もうその直ぐ上は本坊(本堂)です。そしてこの付近の紅葉が綺麗です。