平成25年11月、埼玉県ときがわ町の慈光寺へ訪れました。本坊付近の紅葉が見事でデジタルカメラのシャッターを何度も押しました。「秋、深し」今年の秋は短かったようですが四季の移ろいは必ずめぐってきます。
「秋なんだな」と心でつぶやいていました。別にめずらしいことでもないのですが、こういった感覚を味わえることが一番に幸せな時です。執着もなく自然の流れだけを肌で感じられる喜びは人間が本来持っていたものだと思います。悟りとはこういったものだったのでしょうか。
都幾山慈光寺はときがわ町の山の中腹に伽藍が建ち並ぶ山岳仏教寺院です。山麓西平の宿から少し登ると女人堂前へ出ます。ここから参道が続いていて慈光坂とも呼ばれています。現在この参道は整備され、寺に登る舗装道路を縫うように通っています。
ときがわ町の慈光寺は創建が奈良時代まで遡る歴史ある寺院です。天武天皇の二年(673)、慈訓(じくん)という僧が当山に登り千手観音堂を建て観音霊場としたことから始まり、文武天皇の三年に伊豆国に配流された役小角(えんのおづぬ)という者が東国を歴遊して当山に至り、西蔵坊を設けて修験の道場としたと伝えます。
奈良時代に鑑真和上の高弟で「受戒第一の弟子」と称せられた釈道忠(しゃくどうちゅう)が当山に仏堂を建立、釈迦如来像を安置し一山学生修学の大講堂としたのが創建とされます。
平安時代には天台密教の教旨を広める場所として繁栄し、特に清和天皇の勅願により「天台別院一乗法華院」と定め賜ります。
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慈光寺は鎌倉時代に将軍源頼朝の帰依と庇護を受け、幕府と密接に結び付き発展したといいます。頼朝は奥州藤原氏追討による戦勝祈願のため愛染明王像を当山に送っています。奥州での戦いに勝利すると頼朝は愛染明王に御供米を送り、衆徒に長絹を献じています。また寺領として田畑千二百町歩を寄進したと伝えてます。
建久三年(1192)後白河法皇の四十九日法要にあたって慈光寺は十人の僧侶を派遣しています。
参道を中間部付近まで登りますと多くの石造物が並ぶやや広い空間にでます。ここがかっての山門跡といわれるところです。石造物の中でも一際目につくのが大きな板碑群です。板碑は9基あり一番大きいもので高さ275㎝、上部が欠けた最少のものでも120㎝あるそうです。
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板碑の造立年代は公安7年(1284)を始め、徳治2年(1307)、元享4年(1324)、嘉暦2年(1327)、が鎌倉時代のもので、文和4年(1355)、貞治4年(1365)、寛正5年(1465)、が室町時代のものです。なお康永4年(1345)とされている十三仏塔婆は現地の解説版では磨滅のため判読できず年代不詳となっています。
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ここにある板碑の多くは僧侶が生前に行う逆修供養塔で、以前は慈光寺の各僧坊にあったものをこの場所に集めたものであるといいます。これら逆修供養塔の中には裏面に逆修供養者の死没年月日を追刻したものも見られ、慈光寺全盛期(かって七十五坊があったという)の各坊において盛んに逆修供養が行われていた様子がうかがえるとあります。