川口市本町の鎌倉橋の碑

埼玉県川口市はここ十数年のあいだに街並みが随分と変貌しました。その間に旧鳩ヶ谷市とも合併し、埼玉高速鉄道の地下鉄も開通して、鳩ヶ谷は陸の孤島の汚名から脱却をはかりました。またJR川口駅周辺は高層マンションの建設ラッシュ状態です。かって私が住んでいた旧鳩ヶ谷市は第二産業道路など大きな道路が建設され、かっての古い街並みの道が分かりずらくなっています。


荒川大橋近くの本町に、鎌倉橋記念緑地というのがあります。鎌倉時代の昔に鎌倉街道中道という鎌倉から奥州へ向かう当時の幹線道路が現在の東京都北区岩淵町から川口市の船戸町(現在の南中学校付近)へと旧入間川を渡っていたと伝えられています。ここにある鎌倉橋の碑は船戸が原の小川に架かっていた鎌倉街道の橋のことを説明した碑です。この碑の解説文を下記に書きます。

鎌倉橋の碑
昭和三十五年八月
鎌倉橋はかって荒川のかたわら船戸が原を流れていた小川にかけられた橋でこの碑の南方約120メートルの地点現在川口市立南中学校の校庭にその礎石を残しています。鎌倉橋と呼ぶその名はこれが奥州へ通っ枢要な鎌倉街道に架設されていた橋であることを示しています。義経記にも治承四年(1180)源義経が兄頼朝の挙兵に応じて平泉を発し武蔵国足立郡こかわぐちを過ぎる時徒う軍勢は八十五騎と記して当時すでにこの地が奥州への街道の要所であったことを伝えています。わが川口はこの街道の道筋として発展し今日のこの繁栄の基を築いたもので鋳物業がこの地に興ったのも実にこのためであります。鎌倉橋の史蹟はこの次第を語りわが市の遠い起源をここに伝えています。郷土川口の限りない進展を願うわれらはこの史蹟の語る声なき声に本市創始のいにしえをしのび雄大なる未来創造の英気をここにくみとりましょう

川口の地名が文献に見られる古い記事が上記で語られている「義経記」で、古利根川沿いの埼玉郡大桑村河口(現在加須市川口)に対して、船渡し場の小さかった入間川(現在の荒川)の川口を「小川口」と呼んだといわれています。また中世の川口(小川口)を記述したものに後深草院に仕えた女房二条が綴った「とはずがたり」の紀行文にも語られています。以下にその内容を書きます。

「しはすになりて、川越の入道と申す者の跡なる尼の、武蔵の国小川口という所へ下る。」とあり、雪が降り積もって行く道も分からないくらいであったが、鎌倉より二日で到着した。そこは、「前には入間川とかや流れたる、向かいには岩淵の宿といいて、遊女どものすみかあり。山というものは、この国のうちには見えず、はるばるとある武蔵の茅がれはててあり。」とその頃、この地、山のない果てしなく続く武蔵野の茅が枯れ果て荒涼とした原の様子を描いている。そして、ここ川口と岩淵が集落をなし、岩淵には宿があり遊女までいたと記しているから当時としてはかなりの殷賑のちであったことが窺われる。・・・以上『中世の道・鎌倉街道の探索』北倉庄一の引用

『新編武蔵国風土気記稿』川口宿小名白旗の項には、「往古八幡太郎奥州征伐の時、旗を建し所なれはかく名付りと又ここに鎌倉橋と云土橋あり、当所も古鎌倉街道なりし故この名ありと云。」とあります。

この鎌倉橋を通った道は近世の日光街道御成道とも伝わり、一説には中世鎌倉街道は岩淵から対岸の旧芝川左岸の自然堤防(現在の元郷付近)に接続していたと伝える説もあるようです。

鎌倉街道上道と違って分からないことが多く、道筋も今一つ定かでない鎌倉街道中道ですが、都内北区岩淵から川口市内のどこかを通っていた可能性は高いようです。

鎌倉橋記念緑地内には「空からの火」という岩田健氏作の母が子を抱く像もあります。

 


より大きな地図で 鎌倉橋記念緑地 を表示

タイトルとURLをコピーしました