奈良新薬師寺旧境内大型基壇建物遺構

 

 

現存する奈良時代の建物遺構
上の写真は現在の新薬師寺本堂の背面を撮影したものです。この本堂は奈良時代の遺構です。現在に残る奈良時代の建造物は法隆寺と法起寺を除くと、薬師寺東塔、東大寺三月堂、東大寺正倉院正倉、東大寺三月堂経蔵、東大寺本坊経蔵、東大寺勧進所経蔵、手向山神社宝蔵、東大寺転害門、唐招提寺金堂、唐招提寺宝蔵、唐招提寺経蔵、海龍王寺西金堂、当麻寺東塔、栄山寺八角堂と新薬師寺本堂のみです。唐招提寺講堂は後の時代に大きく改造されているので奈良時代の建物とは言い難いようです。また、当麻寺西塔と室生寺五重塔は奈良時代から平安時代とされています。尚、東大寺三月堂は南側の礼堂は鎌倉時代に増設されたものです。これらの建築物はみな寺院関連のものと経蔵や宝蔵のものばかりなのは何故なのでしょうか。そしてみな幾度もの修理を受けてはいますが1000年以上も持ち応えた建物で、それだけでもすごいことだと思います。現在の高層ビルなどの建築物は果たして1000年持ち応えられるのでしょうか。

新薬師寺本堂は表面中央三間と側面および背面の中央一間が戸口で、それ以外のすべては壁となっていて閉鎖的なイメージがあります。組み物は大斗肘木と簡素な造りで大寺院の中心的な建物とは考えにくい構造です。内部は中央に円形仏壇があり、そこに平安時代の薬師如来像や天平塑像の代表作である十二神将像などの仏像群があります。また内部はいっさい壁を用いず、屋根裏まで広い空間にしています。ホームページ作者は今回久々に堂内を拝観していて、堂内の柱に仏画が描かれていることに気がつきました。

 

 

かって新薬師寺の東の春日山の山中に香山堂(香山薬師寺)と呼ばれる寺院があり、この寺院が新薬師寺の前身であったとも伝えています。また、新薬師寺には香薬師如来立像という金銅の白鳳仏があったのですが、昭和18年に盗難にあい、現在本堂内にはそのレプリカが安置されています。

『大和古寺風物誌』の新薬師寺への道
亀井勝一郎氏の『大和古寺風物誌』(新潮文庫)に新薬師寺への道の印象がこんなふうに書かれています。
「新薬師寺を訪れた人は、途中の高畑の道に一度は必ず心ひかれるにちがいない。はじめて通った日の印象は、いまなお私の心に人幅の絵のごとく止っている。寺までのわずか二丁たらずの距離であるが、このあたりは春日山麓の高燥地帯で、山奥へ通ずるそのゆるやかな登り道は、両側の民家もしずかに古さび、崩れた築地に蔦葛のからみついている荒廃の様が一種の情趣を添えている。古都の余香がほのかに漂っている感じであった。…中略
私ははじめて高畑の道を通った日の感銘が忘れられぬままに数年を過ごした。ところでこの秋は、一体どういうところが美しいのかもっとよく眺めようと思いながら、ゆっくりこの道を登ってみた。民家の一軒ずつを眺め、また築地の有様や立木の姿や路傍の石にまで眼をとめて、その雅致ある所以を改めて心にとめたいと思ったのである。
ところが高畑の道筋は、注意してみればみるほどだんだん感心しなくなるように出来あがっているようだ。…中略 往還ともに同じように観察して歩いたが、どういうわけかこの秋は感銘がうすかったのである。何故だろう。
古都への感傷のままに、なかば夢み心地で通るときが一番美しくみえるのかもしれない。或いは春日の森から伝わってくる森厳の気に、ふと陶酔したときがいいのかもしれない。それとも度重なって通ううちに、私の感覚もいつしか新鮮味を失ったのか。写真にうつして眺めていた方がよさそうだ。乃至は最初の印象を、思い出として心のなかで慈しんでいるのがほんとうかもしれぬ。
改めて観察しようというのが不心得なのであろう。
…略 」

 

 

西ノ京の薬師寺
上の写真は奈良西ノ京の薬師寺です。南門の外から東塔を見上げて撮影した写真です。新薬師寺が創建される前から薬師寺は平城京にありましたが、元は飛鳥の藤原京で創建された寺院です。両寺院を比較するのは如何にも素人発想ですが、同じ薬師仏を本尊とする寺院として少しふれておきたいと思います。天武9年(680)に天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気快癒を祈願して藤原京に創建されたのが薬師寺です。和銅3年(710)に都が平城京に移ると薬師寺も養老2年(718)に平城京の現在の地に移されたといいます。薬師寺は東塔と東院堂以外に近世に再建された金堂や講堂がありましたが、白鳳伽藍復興により、昭和51年(1976)に現在の金堂が復興され、その後西塔、中門・回廊、そして大講堂が復興されました。

 

 

薬師寺大講堂と新薬師寺旧境内大型基壇建物遺構を比較してみる
上の写真は薬師寺の大講堂です。平成15年(2003)の再建です。正面9間(裳階11間)、奥行4間(裳階6間)で、表面41メートル、奥行20メートル、高さ17メートルあるそうです。薬師寺では最大の建物でありますが、新薬師寺旧境内大型建物跡は身舎で約59メートルということですから、写真の薬師寺大講堂より18メートルも大きい建物であったことになります。この薬師寺大講堂と比較しても、その大きさが如何に大きかったかが想像できます。

ところで、この大講堂の本尊の銅造三尊像は、かつては金堂本尊と同様に薬師三尊とされていましたが、大講堂の再建後は「弥勒三尊」と称しています。

 

 

制作時期のはっきりしない薬師寺の仏像
新薬師寺の旧境内大型基壇建物遺構が発見された同じ年(2008)の3月から6月にかけて東京国立博物館にて「国宝薬師寺展」が催されています。薬師寺金堂の本尊薬師三尊像の両脇侍の日光・月光菩薩立像をはじめ、東院堂の聖観音菩薩立像などが東京で見られるということでホームページ作者も見て参りました。光背を外した両菩薩立像を前・横・後・ななめから拝見することができ、その仏像の繊細で優美な姿に改めて驚きを感じ得たものでした。展覧会では日光・月光菩薩立像と聖観音菩薩立像の年代を、「飛鳥時代(白鳳期)または奈良時代・7または8世紀」とずいぶんと曖昧に記述していました。それは今日でもこれら三像の制作時期が白鳳期か天平期かの両説に分かれているからなのでしょうか。薬師寺の金堂薬師三尊像は一般的には白鳳仏とされていますが、この像が飛鳥藤原京の薬師寺から移されたものとする「移坐説」と、或いは平城京に移転してから鋳造されたものとする「新鋳説」の両説があり、前者が飛鳥時代(白鳳期)にあたり、後者が奈良時代ということなのです。薬師寺展では両説が掲示され、論争に結論が出ていないため両者を併記したとありました。

 

 

混乱した時代のなかで作られた謎の優れた仏像
薬師寺の金堂薬師三尊像が、移坐説と新鋳説の両説があることは制作年代を決定できる資料も論評も無く、今日も謎のままで、この論争が決着することは日本の飛鳥から奈良時代の歴史背景に大きな影響を与えることにもなるのかも知れません。しかし、両説があるとしても、この仏像の鋳造者は大陸から渡来した、当時の最先端かつ一級の仏師の作である可能性も考えられるのです。残念なことは唐代や朝鮮半島に類例の仏像が残っていないことです。飛鳥時代から奈良時代は日本史の中でも内乱や権力闘争、そして中国及び朝鮮半島との緊張した外交の時代で、そのようななかで金堂薬師三尊像や東院堂聖観音菩薩立像のような穏やかで優しい表情の仏像が作られたのは如何なる背景があったのでしょうか。その真相を知りたいと思うのはホームページ作者だけではないと思います。現在の技術を持ってしてもこれだけの彫刻をつくるのは並大抵の技ではないことでしょう。享禄元年(1528)に戦火で金堂を焼失しているにもかかわらず、薬師三尊像は溶けずに残り今日のような黒光りした姿に変わってしまったといいます。これらの仏像は今日の私達に何を語りかけているのでしょうか。

玄奘三蔵院と法相宗
上の写真は玄奘三蔵院の玄奘塔です。平成3年(1991)に建てられたもので玄奘三蔵を祀っています。玄奘三蔵院の大唐西域壁画殿には日本画家平山郁夫氏が30年をかけて制作した、玄奘三蔵求法の精神を描いた壁画を絵身舎利として祀っています。薬師寺は南都六宗の法相宗です。法相宗は「唯識」を根本教義としていて、玄奘三蔵の弟子である慈恩大師がその開祖です。世の全ての物は、見る人の心の反映であるとするのが唯識で、自分の認識をとぎ澄ませていくことで救いをみいだそうとするのが法相宗の教えなのです。

 

 

大仏造立で負担を負わされた当時の人々
上の写真は東大寺中門前の鏡池付近から見た大仏殿です。現在の大仏殿の東西幅は57メートルあるといいますから、発見された新薬師寺旧境内大型基壇建物と同じぐらいの大きさです。創建当初の大仏殿は桁行が11間で86メートルもあったそうです。大仏の造立は天平19年(747)の聖武天皇の大仏造立の詔から、天平勝宝4年(752)の大仏開眼会までの8年5箇月もの歳月を要していました。当時の人口の二人に一人が大仏造立事業にかかわっていたともいわれ、それだけの労力と費用は膨大なものであり、それと時を同じくして新薬師寺は創建されているわけですから、時の権力者らが如何に仏教による政策を重んじていたかが想像されます。しかし、大仏造立の事業は負担が大きく、人々は貧困に苦しみ、国費は浪費するばかりであったようです。天平勝宝8年(756)に橘諸兄の子である橘奈良麻呂が藤原仲麻呂の政権を倒そうとして橘奈良麻呂の変が起こります。逮捕された橘奈良麻呂は、東大寺の造営で人民は苦しんでいることを訴えていたと言います。

 

 

 

春日大社の鹿
上の写真の下側は東大寺境内にいた鹿で、上側は東大寺鐘楼西側の石階段から見た大仏殿です。奈良公園の鹿は春日大社の神使であることは知られています。春日大社の祭神は武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神の四神です、武甕槌命は東国常陸国の鹿島神宮から勧請されています。経津主命はこれも東国下総国の香取神宮から勧請されていて、天児屋根命、比売神は大阪の枚岡神社の祭神を勧請しているそうです。春日大社の四神は藤原氏の氏神とされています。ところで春日大社の鹿は鹿島神宮の鹿ということなのでしょうか。

律令制のなかでの規制緩和と格差問題
大化の改新の後、改新の詔の原則に「公地公民」というのがあります。皇族・諸豪族の私有地(屯倉・田荘)・私有民(田部・部曲)は廃止され、戸籍 ・計帳をつくり、斑田収受法を実施しています。農民は口分田を与えられ租(稲の税)を納入する義務がありました。さらに律令制下の農民は、調・庸・雑徭の過酷な税が課せられていて、偽籍、逃亡・浮浪などで逃れんとする者もあったようです。そのために手入れされない口分田は荒れ地化してゆきます。律令政府はやがて「三世一身の法」「墾田永年私財法」により私有の原理を取り入れ土地の開発を促すのですが、これにより公地公民の原理は崩れてゆき次の時代では荘園制へとかわってゆきます。三世一身の法・墾田永年私財法は今日でいうならば規制緩和であり、規制緩和の後には格差社会が問題になりますが、古代においても国司が支配地を国衙領として公地を私有化するようになり、国司は徴税ばかりで政治や治安に無関心となり地方の政治は乱れてゆきます。農民は自分たちで土地を守らなくてはならず、やがて地方から武士が発生していったと考えられています。

 

 

奈良の都と八幡神のかかわり
上の写真は手向山神社宝蔵です。この建物は正倉院の正倉と同じく高床式の校倉造です。手向山八幡宮は東大寺大仏鋳造の時に東大寺の守護神として宇佐八幡宮より勧請されました。初めは東大寺大仏殿南方の鏡池付近にあったそうですが、治承4年(1180年)の平重衡の南都焼き討ちで焼失してしまいます。その後、建長2年(1250年)に北条時頼が現在地に再建したと伝えてます。八幡神は奈良時代の政治と深い関係があるようです。天平12年(740)の藤原広嗣の乱では鎮圧祈願を聖武天皇から受け、乱が鎮圧されると八幡神は聖武天皇から信頼を得るのでした。その後に大仏造立の時、難工事であったことから東大寺に手向山八幡宮として勧請されます。藤原仲麻呂(恵美押勝)の政権時には八幡神は退けられていたようですが、称徳天皇の時に僧の道鏡を皇位につけるべきという八幡神の神託があったといい、そのことを宇佐八幡に確認に行った和気清麻呂は、それが偽りであったという報告を持ち帰りますが、称徳天皇はその報告に不満をいだき、和気清麻呂は左遷されてしまいます。八幡神は仏教とも深いかかわりがあるようです。薬師寺の休ヶ岡八幡宮には国宝の八幡三神坐像があり、その像がつくられた平安時代初め頃には八幡神は応神天皇であると考えられていたようです。応神天皇の母の神功皇后と、皇后の仲津姫命の三体の組み合わせになっていて、僧形八幡神像は僧侶と同じ姿をしていて、八幡大菩薩と呼ばれる由縁がこの像から仏教とのかかわりを感じとることができます。

 

 

史跡整備がすすむ平城宮跡
上の写真は再建された平城宮朱雀門です。現在(2009)平常宮第一次大極殿が再建中です。聖武天皇は藤原広嗣の乱後に平城京からいったん離れて恭仁宮、難波宮、紫香楽宮等と遷都しますが再び平城京に戻っています。平城宮跡では最初の大極殿・朝堂院があった遺構を第一次と呼び、遷都後に戻ってきた時の遺構を第二次と呼んでいます。
称徳天皇の後は光仁天皇、桓武天皇と続きますが、壬申の乱後の天武天皇から称徳天皇までを天武系といい、光仁天皇からは天智系といわれています。天武系の時代は日本の天皇制の中で女性の天皇が立て続けに就いていますがこれは日本史の謎の一つです。天智系の桓武天皇は、天武系の都である平城京と平城京の仏教寺院を好まず、長岡京に遷都していますが、直ぐまた平安京へと遷都し、以後平安京が日本の都として長く続くことになります。

新薬師寺と藤原氏のかかわり
新薬師寺の創建については藤原氏による影響があると言われています。藤原不比等と県犬養三千代(橘三千代)の娘である光明皇后が創建者であるとされていて、光明皇后は施薬院や悲田院といった医療機関をつくり、全国的に各種の薬草を集めていたともいいます。今度の発掘では薬壷と考えられる須恵器の壷が発見されていて、仏前の供え物用というより実用的なものの可能性があるともいい、謎の多い新薬師寺は病院的な機能も持った寺院ではなかったかとの見方もあるようです。ただし光明皇后の施薬院と悲田院は興福寺に建設されていると言います。新薬師寺が創建される以前、神亀5年(728)に光明子は幼い皇太子(基王)を亡くしています。この亡くなった皇太子は藤原氏からの天皇になるはずでした。その翌年には反藤原の長屋王の変があり、更にその後の藤原四兄弟が相次いで天然痘による死亡と、藤原氏にとっての不運な出来事が続いていました。そこで天武天皇が創建した薬師寺とは別に、藤原氏による新たな七仏薬師を祀る新薬師寺が建てられたのかも知れません。

新薬師寺旧境内大型基壇建物遺構は現在のところは金堂と考えられていますが、講堂と見る研究者もいるようです。また、その遺構から建物があまりにも大きいことや南全面に特異な大きな階段を持っていたとする考えに対して、或いは金堂とは別の特殊な建物ではないかという意見もあるようです。『東大寺山堺四至図』では新薬師寺の七仏薬師金堂は7間、『東大寺要録』には新薬師寺仏殿9間とあり、今回発見された遺構の復元では身舎で13間、内陣で11間といずれの資料とも一致しないのはどのようなことが考えられるのか、いずれ今後の調査と研究で、塔の遺構などが発見されればその実態が解明されてゆくことなのでしょう。

最後に万葉集の歌二首を紹介して終わります。

巻8-1598 大伴家持
さを鹿の 朝立つ野辺の 秋萩に 玉と見るまで 置ける白露

巻8-1604 大原真人今城
秋されば 春日の山の 黄葉見る 奈良の都の 荒るらく惜しも

 

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