奈良新薬師寺旧境内大型基壇建物遺構

 

 

大型建物の基壇は壇上積基壇で礎石据付掘形(柱列)などの遺構が確認された。
古代の寺院建築のような規模が大きく瓦葺きの重量のある建物は強固な基礎が必要です。基壇は建物を支えるための基礎の部分に砂質土と粘質土を交互に敷き固めて(版築工法)積み上げられ、柱位置には礎石が置かれます。基壇化粧としては切石の組み合わせによる「壇上積基壇」があり、今回見つかった新薬師寺の大型建物の基壇はこの造りになります。壇上積基壇の他に「乱石積基壇」「瓦積基壇」などが古代寺院建築に用いられています。京都府木津川市の高麗寺跡では瓦積基壇に三段の重成基壇が確認されています。

上の写真は大型基壇建物遺構の南西部で見つかった「礎石据付掘形」で礎石の柱列です。

 

 

礎石据付掘形は礎石の下に施された壷地業の一種で、一辺が2.7〜2.9メートルあり、深さは最深で約50センチほど残存し、人頭大の地固め石を入れてあります。遺構の西端は地盤が弱いため、方形の掘形に版築を施して地固め石を入れ礎石据付のこのような地業を行っているということです。この柱列から桁行き4.5メートル、梁間3.9メートルになるということです。地固め石と礎石据付掘形は基壇西側に6基確認されています。

 

 

今回の調査では、基壇内東側は後世の削平により基盤になる段丘砂礫が露出し、礎石やその痕跡と遺物等は残存していなかったようです。しかし、全体ではこれほど大きな建物跡が確認されたことは特筆すべきことで、古代寺院跡の考古学調査の成果としては、昭和57年(1982)の山田寺跡の東回廊がそのまま出土したもの、平成9・10年(1997・98)桜井市の吉備池廃寺(百済大寺)の巨大基壇の発掘などに次ぐ成果だと思います。

 

 

上の写真は、柱の礎石があったところの壷掘り地業(版築)を横断面(セクション)で見ることができるところを撮影したものです。地固め石のある付近で多重に突き固められた地層が確認できます。

飛鳥・奈良時代の歴史は考古学の発見で次々と変わってゆく
ホームページ作者はもともと日本史が好きで、そのなかでも古代の飛鳥・奈良時代は謎が多いことから特別に興味を持っていました。この時代の歴史ニュース(考古学等の新発見など)は注意深くチャックしていました。新発見があるたびにこれまでの歴史通説に修正が加えられてゆくのもこの時代の特徴的なところで、大化の改新の歴史的意義については此までとは180度転回した説も出されています。今回、新薬師寺旧境内で東大寺大仏殿に次ぐ大きな建物跡が見つかったというニュースは大いに関心がありました。

 

 

東大寺大仏造立と時を同じにして新薬師寺は建てられている
飛鳥時代から奈良時代にかけての歴史は仏教を抜きでは語ることはできません。日本史の中で古代から中世までは仏教は国家政策には欠かせない存在であったのです。新薬師寺が建てられた時代はまさに政治権力と密接な関係を持っていたのが仏教であり寺院であったのです。この時代、政治権力である国家と仏教寺院とのかかわりを代表するものが聖武天皇の詔により建立された東大寺と大仏、及び国分寺ならびに国分尼寺ではないでしょうか。新薬師寺はその東大寺とほぼ同時代に建てられた寺院です。東大寺大仏造立と時を同じにして、これだけの規模を有する仏殿が建設された新薬師寺とはいかなる寺院であったのか、驚きと同時に新薬師寺建設の意味をあらためて考えさせられるものがあります。

 

 

平成20年11月、奈良教育大学校内の紅葉も美しい紅色に染まっていました。

飛鳥時代から奈良時代の歴史は先ほども書きましたが、とにかく謎が多い時代です。新薬師寺旧境内大型基壇建物遺構の発見は新たな謎を突きつけられるものでした。奈良時代は国家政策の中心に仏教があり寺院建設に膨大な力をそそいでいますが、その建設にかかる労力と経費は当時の権力者達が仏の加護を重んじていたというだけでは理解しがたいものがあります。そしてそれら寺院の建設技術の高度なことや、仏教芸術のずば抜けて優れたることはいったいどこから生まれたものなのでしょうか。飛鳥・奈良時代の寺院建設は、その時代背景の歴史を無視することはできません。新薬師寺が建てられた当時の歴史を少し見ておきましょう。

 

 

上の写真は、大型建物基壇遺構が見つかった奈良教育大学の調査地を上空から撮影されたものです。写真の左上の部分で基壇位置と柱跡位置が書かれているところが新薬師寺の推定金堂跡です。そして写真の右上の建物は現在の新薬師寺本堂です。ついでに両者の中間にある大きめな建物は奈良市写真美術館で写真家の入江泰吉氏の写真が展示されています。

藤原広嗣の乱と聖武天皇の遷都
新薬師寺が建てられた当時の歴史背景を幾つかみてみましょう。現在の新薬師寺本堂と奈良市写真美術館の間の林の中に鏡神社があります。藤原広嗣を祀った神社です。藤原広嗣は新薬師寺が建立される7年前の天平12年(740)に時の政権を握っていた橘諸兄に対して九州で反乱を起こしましたが鎮圧され、最後は肥後国松浦郡値嘉島で大将軍大野東人に捉えられ斬られています。これを藤原広嗣の乱といい、この乱は聖武天皇に大きな影響を与えていたものといわれています。乱の後に都を恭仁宮、難波宮、紫香楽宮と遷都したあげく、再び平城京に戻り東大寺と大仏を造営しているのです。天皇が平城京に帰着された天平17年(745)に「聖武天皇不予にあたり、京師および諸国に高六尺三寸の七仏薬師像の造立を命ずる」と『続日本紀』にあります。

 

 

鏡神社は藤原広嗣の怨霊を鎮めるために建てられたといういわゆる御霊神社なのです。広嗣は藤原不比等の子である藤原四子の宇合の長子でした。橘諸兄は遣唐使で天平6年(734)に帰朝した玄昉と吉備真備の二人を重く登用していました。太宰府へ左遷されていた広嗣はこの二人に不満を持っていて、玄昉と真備を除くことを書いた上表文を朝廷に送りました。朝廷は広嗣が謀反をくわだてたものとそれを受け取り、鎮定のため大軍を九州へ向かわせ、そこで藤原広嗣の乱が勃発したのでした。

吉備塚古墳と玄昉の頭塔
奈良教育大学の校内に吉備塚古墳と呼ばれている塚があります。吉備真備を埋葬した古墳であるとの伝承を持つ塚ですが、平成14・15年の発掘調査により三累環頭大刀という6世紀頃の副葬品が発見され話題となりました。この大刀は貴重な発見でしたが、古墳が6世紀代のものと考えられることから、吉備真備の墓の可能性は少なくなりました。吉備真備というひとは、その後の恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱でも乱の鎮圧にかかわっています。一方、奈良教育大学の北西に「頭塔」と呼ばれるピラミッド型の石積塔があり、玄昉の首塚であるとの伝承を持っています。このように新薬師寺の近辺には藤原広嗣の乱に関連した人物の伝承を持つ遺跡が多く伝えられていることは何故なのでしょうか? 藤原広嗣の乱と新薬師寺を関連づけようとするのはホームページ作者が素人であるからで、そんなことをいっている専門家や研究者はどこにもいませんので、あしからず。

上の写真は現在の新薬師寺の本堂です。数少ない奈良時代の建物で国宝に指定されています。

 

 

西ノ京の薬師寺と高畑の新薬師寺
新薬師寺が建てられた地は奈良市の東の外れで、柳生街道や山の辺の道の入口にあたる高畑にあります。そこは平城京の時代であっても外京と呼ばれる東に張りだした謎の区画の更に東にあたります。薬師如来は薬師瑠璃光如来といい、東方浄瑠璃世界の教主ですから京の東に建てられたことは納得できます。ただ平城京には藤原京より移転された薬師寺があるにもかかわらず、同じ薬師仏を主尊とする新薬師寺が建設されたのはなぜなのでしょうか。通説では光明皇后による聖武天皇の眼病平癒祈願の為といわれていますが、それ以外にも何か隠された理由があったものと考えたくなります。そして今回発見された大型基壇建物遺構から想像して、東大寺の大仏造立と並行して新薬師寺が建設されていることは、これらの建設事業にかかる経費と労力はとてつもなく膨大なものであったことが想像され、光明皇后と聖武天皇の仏教への加護は大きなものであったことが想像されます。

上の写真は現在の新薬師寺本堂の基壇です。二重基壇で桁行七間、梁間五間の一重入母屋造りの建築で、創建当時の食堂(じきどう)であったとの説もある建物です。

タイトルとURLをコピーしました