廣徳寺大御堂
廣徳寺(こうとくじ)は大御山西福院と号し、新義真言宗豊山派に属しています。古くは三河国誕生院末でありましたが、元禄時代に江戸大塚の護持院末となり、更に護国寺末になったと伝えます。天正9年(1581)に寺領五石の御朱印を賜ったと寺の説明板に記されています。
当寺は正保・享保の両度の火災により、大御堂、仁王門を除き焼失していて、火災後、補充された寺伝によれば、当寺は平城天皇の御宇大同年間の創立で、その後衰退していたが、鎌倉時代の始めにこの地方の豪族で、源頼朝に従った美尾屋十郎廣徳の菩提所として、夫人二位の尼公(北条政子)が主となり大御堂及び本堂、坊舎の数棟を再建し、廣徳寺と称したと伝えています。
現在ある大御堂は建立年代は明らかではありませんが、容姿から室町時代に遡るものがあり、関東地方に於ける禅宗様仏堂遺構として重要であり国指定重要文化財に指定されています。
<構造及び形式>
表面三間側面三間、組物禅宗様平三斗詰組、一軒繁垂木、寄棟造、茅葺、縁あり
大御堂の名は浄土信仰が盛んであった平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて用いられた阿弥陀堂の通称です。このお堂は前代の建物の規模や形式を踏襲して室町時代に再建されたものと見られています。
大御堂は正面3間が桟唐戸となっていますが、解体修理以前の古い写真を図書館資料で拝見すると、以前は三間の中央一間のみが桟唐戸で、その左右は粗末な蔀戸となっていました。
この古建築が文化財として価値があるかどうかの目安として、近世より以前の建物であるかどうかという判定があったものと思われます。例えば江戸時代の建築物でも文化財指定になっているものが沢山ありますが、その多くは室町時代以前の様式を忠実に再現しているものがほとんどなのです。
寺院建築に関しては禅宗様までが、日本の寺院建築様式であって、江戸時代の寺院建築様式というのは特にありません。
古建築を説明する時に、様式がどうのこうのと説明をすることは、それに興味がある人か、または建築の専門家でもなければ、あまり面白いものではありません。しかし、古建築が美しいもの、素晴らしいものと捉えることが出来るかは、その人の建築物に対する知識が大きくかかわるものと思います。美術、芸術、芸能などの鑑賞力は、それらの知識の上積みがあって輝いて見えるのではないでしょうか。近頃思うことは、知識は情報の蓄積とは違うものではないかと感じています。情報を有効活用することができて知識となるのであり、無用な情報に振り回され我を忘れるようでは意味がありません。理屈っぽくなると失礼ですので知識の話はこの辺にして起きましょう。
ブログ作者が図書館の資料で見た修理以前の大御堂は、その粗末な蔀戸が目立っていて、どこにでもあるお寺のお堂とあまり変わらない感じを受けたものでした。しかし忠実に再現修理すると現在のような素晴らしいお堂に変わるものなどだと大いに関心させられました。
お堂の桟唐戸や三斗組の組物などから禅宗様であることがうかがわれますが、垂木などは繁垂木(並行垂木)で典型的な禅宗様とは異なる部分も見られます。屋根は寄棟造で最も自然な形の屋根です。組物が禅宗様にしては簡素なのは再建前の純粋な阿弥陀堂を意識したものかも知れません。屋根の葺きを修理前の茅葺のままにしたのは東国の素朴な建築物として伝えたかったものなのかも知れません。
内部の中央須弥壇に阿弥陀三尊像が置かれ、更に堂内の東北と西北の隅に小壇を設け不動明王と毘沙門天像を安置しているということです。
大御堂の裏の墓地の奥に、こんもりとした塚があります。塚上には数基の板碑と廣徳碑という石碑が建っています。一説にはこの塚は美尾屋十郎廣徳の墳墓とも伝えていますが、塚から出土したという寺蔵の鏡、馬鐸、直刀などの遺物の存在、及び塚の形状から考えて、奈良時代の円墳ではないかとする考もあるようです。
廣徳寺境内は美尾屋十郎廣徳の館跡とも伝えられています。確かに境内を取り囲むように堀跡らしき地形が確認されますが、その時代の遺構なのかは不明です。
美尾屋十郎廣徳という人について『新編武蔵風土記稿』の「建置沿革」の中の「鎌倉将軍」の項に、治承4年(1180)頃、源頼朝に従った武蔵武士として水尾谷十郎と水尾谷藤七という人物が出ています。また『吾妻鏡』にも水尾谷十郎或いは三尾谷十郎という名前が登場します。『平家物語』の「弓流」には美尾屋十郎、同じく四郎、同じく藤七らが登場しています。美尾屋十郎廣徳についって、出生の場所、年月日等、不明な部分が多い人物なのですが、武蔵七党に属さない、三保谷郷の豪族であった人物なのではないでしょうか。
このお寺が美尾屋十郎廣徳の館跡だとすると、ここから鎌倉までは、どこの鎌倉街道を通ったのか興味があるところです。
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